我ら徒花討伐隊!!

2008/04/25(金)16:19

The mills of the gods grind slowly but sure.

解説(49)

2008年4月、9年もの長きにわたり、審理が続いていた残酷な事件に一つの終止符が、 広島高裁により打たれた。事件の残虐性はもちろん、数々の議論・疑問を産んだ裁判ではあったが、遺族・本村洋さんの、終始一貫、的確な論旨要点を述べうる優れた知性に驚嘆の思いを抱き、その精神力に共感された方は多いと思う。今後の審判への新たな指標になると注目され続けた「光市母子殺害事件」。是非はともあれ、4月22日一つの槌音の後、語られた「犯罪被害者」本村洋さんの言葉を拾ってみたい。 「最後まで事実を認め、誠心誠意、反省の弁を述べて欲しかった。そうすれば、もしかしたら死刑は回避されたかもしれない。なぜ遺族の感情を逆なでして、ああいった供述をしたのか。心の弱さゆえにうその供述をしたのであれば正直に述べてほしいし、 そういった心境や悔悟の念をくみ取る報道機関もあっていい。そして被告が反省した姿を社会に見せることが防犯の力になると思う。」 「胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。」 私が今、置かれている現状に比べれば、比較・引用するのも愚かである程の凄惨さだ。けれど、事の大小に係わらず世の不条理に直面したとき、誰もが望む、また適えられるなくてはならない「正義」が、彼の言葉には満ちあふれている。「命」という言葉を「心」に置き換えて欲しい。自らの「心」をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。私は、去年の夏からのこの一連につき、つれづれ草23から、何一つ、謝罪の言葉をもらったことがなかった。家人の入院のためにコメントできない私に向けられたのは、つれづれ草23の醜い爪だ。そのことの謝罪も含め、一度も聞いたことがない。あの時、彼が、人並みの「同情心」を示していれば、事態は、こんな風にはなっていなかった、絶対に。何度でも言う。謝罪するべき時を幾度も幾度も持ちながら、つれづれ草23がし続けてきたことは、「心」への新たな暴力だ。そして今、彼は私への初めての「謝罪」で、もっと深く的確に、「心」を傷つけた。 何度だって言う。私は、あなたを許さない。私が、今、あなたを許したら、それは「心への犯罪」を野放しにすることと同じだ。だから、私は許さない。「被告が反省した姿を社会に見せることが防犯の力になる」あなたが真摯に己の愚に向き合うことが真の反省であり、それが、「謝罪」の端緒になるはずだ。 .......................................................................................、難しすぎたね、はい、噛み砕こうね。うろちょろ出入りして、人の文章、あちこち貼り付けて「おともだち」に泣きつくのが 謝った態度かい。それで「何度も謝ったのにきいてくれません」とか、言ってんじゃないよ?危機管理もまともに認識できない、脳天気な人間ばかりじゃないっちゅ~ねん。どこの「精根が尽き」れば、またブログなんか出来るわけ?何のために、私が「楽天ブログ」の条件を出したと思ってんねん。「謝罪する」のに、イイワケなんかするんじゃねーっ!!って、親にひっぱたかれたことないの?晴耕雨読を夢見る前に、●●みそ、耕せば? ..........、なんで、私が知ってるか、知りたい?教えてあげてもいいけど、さ。ただじゃ教えてや~らないっ、と!スナドケイハ、ヒックリカエッタヨタイトルは、古代ギリシャの格言を引用、聖書・シェークスピア・アガサクリスティ他 神の挽き臼はゆるやかだが、余すことがない。 

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