照千一隅(保守の精神)

2015/11/15(日)22:38

「無私」とは何か(2) ~「滅私奉公」を全否定すべきではない~

思想・哲学(661)

ここで小林秀雄が言う「無私」とは、「私」にこだわりがないということ、そしてより上位の価値を求めようとする態度なのであろうと思われる。これは『老子』の思想に通じる。 天は長く地は久し。天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、其の自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。是(ここ)を以て聖人は、其の身を後(のち)にして而(しか)も身は先んず。其の身を外にして而も身は存す。其の私無きを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。(老子:第7章)(天は永遠であり、地はいつまでもある。どうしてそうであるかといえば、自身の命を育てようとしないからだ。だから、あんなに長く生きているのだ。それゆえに聖人は(人の)背後に身をおきながら、実はいつも前方にいる。外側に身をおいているが、実はいつもそこに在る。かれは個人的なことのために力を出さない。まさにそのために、かれの個人的なことがなしとげられるのではないか)(『世界の名著4 老子 荘子』(中央公論社)小川環樹訳、p. 77) 《哲学者の西田幾多郎は、人間は主体として常に理性的な計算によって行動するのではなく、「無私の精神」にたって、自分を殺し、無の境地になって、与えられた状況のなかで己の役割を果たそうとするのが日本的な心情だと考えていた》(佐伯啓思:『SAPIO』(小学館)2015年2月号)  私は西田哲学に明るいわけではないが、西田幾多郎は哲学的に「無」を探求したのであって、社会的な「無私」を論じたわけではない。したがって、「特攻精神」を西田幾多郎によって擁護するのは無理筋ではないかと思う。 《西洋の多くの国では、憲法で「祖国の防衛は市民の義務」と謳われている。社会契約論を唱えたルソーも、「市民は祖国のために死ぬべきだ」と述べている。主権が王にあれば、王が臣民の生命・財産を守るが、主権が国民にあるなら国民が自ら守る》(同) というのはその通りである。 《民主主義国の多くが兵役を「市民的義務」としていることの意味を考えてみるべきである。現実には現代のハイテク戦で、素人を徴兵して戦力になるのかという問題はあるが、いずれにせよ市民の広い意味での公共的精神を涵養(かんよう)することは不可欠だ。  中学生か高校生の頃に、社会福祉の仕事や自衛隊の体験入隊などの経験を通して奉仕や国防の実際を知ることをやってもよい》(同)  日本人には幸か不幸か「徴兵制」がない。そのため「公共の精神」を涵養することが難しくなっているように私は以前より感じてきた。その意味で、私は佐伯氏と同じ問題意識を共有していると言って良い。  自衛隊というと拒否反応を起こす人も少なくないであろうが、自衛隊には軍事的なものと災害救助的なものがあって、後者であれば否定されるものではないように思われる。  災害は毎年日本各地で起こっている。その度に自衛隊が駆り出されている。であるなら、国民の義務として1年程度災害救助隊として活動することは奉仕の精神を養う上で有効であろうと思われる。また女子などは別の選択肢として、介護の仕事に携わればよい。  戦後日本は戦前の「滅私奉公」を否定し続けてきたが、行き過ぎた否定が逆に自分勝手な人間で社会をあふれさせることになってはいないか。そのことを今一度考えてみる必要もあるのではないかと思われるところである。(了)

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