照千一隅(保守の精神)

2022/04/14(木)21:00

「政教分離」について(17) 伊藤正己の解説その2

憲法(216)

《このような神権天皇制を支える神社国教制の役割に対し、ポツダム宣言はとくに宗教の自由の尊重を明示して否定的態度を示し、連合国総司令部の昭和20年12月15日の「神道指令」は、国家と神社の分離を求め、特権を伴う神社の国教的地位を廃止した。昭和21年1月1日のいわゆる天皇の「人間宣言」の詔書は、神権天皇制という神社国教制の基盤の消滅を明らかにした。このような背景のもとに、日本国憲法は、とくに信教の自由について詳細な規定をおくこととなった。それは大別すると信教の自由の保障と国家と宗教の分離の2つになる》(伊藤正己『憲法 新版』弘文堂、p. 262) <神社国教制>もマルクス主義者そのものの物言いである。<神社>は施設であって、<国教>になど成り様がない。にもかかわらず、<神社国教制>などと明治時代にそのような制度があったかのように言うのは、そのような制度があったことにしなければ、戦前、神社を国教とし、政教一致となったことが、日本を破滅に導いたという「幻想」と辻褄が合わなくなるからであろう。《国家権力が宗教とくに特定宗教と結びついたときには、信教の自由への大きな脅威となることは歴史の経験の教えるところである》(同、p. 269) が、そのような<歴史>は日本にはない。西洋の<歴史>は西洋の<歴史>であって、日本とは事情が大きく異なっている。宗教戦争をはじめとする苛烈な宗教事情を抱えてきた西洋の<歴史>を踏まえ、日本にも<政教分離>が必要だなどという話は頓珍漢と言うしかない。 否、当の西洋においてさえ、「教会と国家の分離」を厳守しているのは「革命」の起こったフランスだけであって、英国に至っては<国教>さえ存在する。ちなみに、西洋の歴史を嫌って新大陸に渡り建国を果たした米国は、フランス同様の完全な「教会と国家の分離」の立場とされるが、これは歴史的経験に基づくものではなく、西洋のような宗教問題を起こさぬよう謂わば「予防線」を張っただけで、さしたる根拠はない。 総じて言えば、キリスト教圏でもない日本が西洋を見習って、否、西洋よりも徹底して<宗教>と<国家>を分離すべき正当なる理由はないということである。 それもそのはず、日本国憲法に「政教分離」規定があるのは、GHQが日本の<神道>を欧米のキリスト教に相当するものとの誤解によって書き込まれたものだからである。《宗教的迫害はこの国家と宗教の結合から発することが多い。しかも、この国家と宗教の結びつきは、国民の信教の自由にとって最も危険であるのみならず、結びついた宗教そのものも国家権力と癒着することによってその宗教的な純粋さを失い、世俗と混活することによって堕落していったのである。同時に、国家もまた宗教的な憎悪心に裏づけられた激しい対立にまき込まれ、秩序の不安定、政治の混乱をもたらすことが多かった。このような歴史の教えは近代憲法のうちに政教の分離をもち込むこととなった》(同)というのは日本のお話ではなく西洋のお話である。

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