照千一隅(保守の精神)

2023/12/09(土)20:00

大東亜戦争肯定論を考える(52)西郷の「征韓論」は平和的解決策

歴史(302)

「征韓論」について、明治指導者の間でどのようなやり取りが具体的にあったのかを見ておこう。《朝鮮のことが、最初に正式に太政官(だじょうかん)会議の議題となったのは、6月12日のことであった。 この日は参朝日であったので、太政大臣の三条実美(さんじょう・さねとみ)をはじめ、西郷・板垣・大隈・後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)・大木喬任(おおき・たかとう)・江藤新平の6参議が皆出て来て、会議室に集まっていると、扉をあけて入って来た者があった。 外務少輔上野景範(うえの・かげのり)であった。当時外務省は、卿(くげ)の副島は清国に、大輔(たいふ)の寺島宗則(てらしま・むねのり)は英国に、それぞれ出張中であったので、上野が万事をとりしきっていたのである。 「緊急に申上げたいことがあります」 と、前置きして、上野は朝鮮問題をそもそものはじめから説きおこし、現在のことにおよんだ。「朝鮮政府は、わが使節にたいして暴慢無礼であるだけでなく、近頃の日本は中華聖人の教えを捨て禽獣(きんじゅう)にひとしき夷狄(いてき)の風を学び、夷秋の真似ばかりしている、夷秋を学ぶものは夷秋、禽獣を学ぶものは禽獣、今や日本人は夷狄、禽獣となった、もしわが国土に古来の日本の風俗以外であらわれるものがいたら、それは禽獣、夷秋である、決して入れるな、などと煽動していますので、やがて必ずわが居留民に凶変の生ずることは明らかです。今日となっては、居留民全部を引上げさせるか、武力に訴えてでも条約を結ばせるか、いずれか1つに決するよりほかはないと存じます。ご裁断を仰ぐためにまかり出でました」 上野のことばは言々風霜の気をおび、慷慨(こうがい)の情にあふれていた》(海音寺潮五郎『西郷と大久保』(新潮社)、p. 286) 著者海音寺は、西郷が上野を呼んだのだろうと推測するが、事の真偽は分からない。《先ず板垣が発言した。「居留民保護は、政府の責任です。すぐ一大隊くらいの兵を釜山(ぷさん)に出しましょう。彼は我を侮(あなど)っているのですから、談判する上にもその方が都合がよいでありましょう」 西郷は首をふった。「おことばですが、それは性急にすぎますぞ。そげんことをしたら、朝鮮では日本が国を取りに来たと疑うて、恐ろしがるでごわしょう。先ず、これまでの交渉の経過を考えてみようじゃありませんか。これまで、こちらから遣(つか)わした使者は、皆卑官(ひかん=階級の低い官)ばかりでごわした。じゃから、向うでも地方役人しか相手させんじゃったのではなかでしょうか。果してそうなら、談判にならんはずでごわす。こんどは一つ、位も高く、責任も十分に負える全権を出そうじゃありませんか。そうすれば、向うも大官を出して来るでごわしょうから、堂々と万国交際の道理を説くことが出来ます。いくらあちらが頑迷でも、わからんことはなかでしょう」》(同、p. 287) 侮る朝鮮を力で抑え込もうとする板垣を制止し、平和的に、話し合いで解決しようとしたのが西郷だったのだ。

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