照千一隅(保守の精神)

2024/03/22(金)20:00

ナショナリズムとは何か(8)われわれ集団

思想・哲学(694)

《さらに、ナショナル=リーダーシップは、「われわれ」集団の運命の共通性をさまざまに解釈し、「われわれ」集団の枠組みをすら変更する》(武者小路公秀「ナショナリズム」:『現代思想事典』(講談社現代新書)、p. 508) 何の説明もなしに、突然<「われわれ」集団>などと言われても訳が分からない。「われわれ集団」と言えば、サムナーのものが有名だ。《われわれが定式化することが必要である「未開社会」の概念は、一定の地域にばらまかれた小集団群ということである。集団群の規模は、生存競争の諸条件によって決定される。おのおのの集団の内部の組織は、その規模と対応する。集団群のなかの1つの集団は、お互い同士、親族、隣人、同盟、婚姻、取引などで、なんらかの関係をもっているかも知れない。そしてそれが、お互いに結合したり、他と分化したりする。このようにして、われわれ自身やわれわれ集団および内集団と、よそもの、他者の集団、外集団との分化が生じる。われわれ集団の内部の者は、お互いに、平和、秩序、法、統治、勤勉の関係にある。よそものや他者の集団との関係は、相互の協約がそれを和らげることをしないかぎりにおいては、戦争や略奪の関係にある》(サムナー「フォークウェイズ」:『現代社会学体系3』(青木書店)、p. 20) どうして武者小路が「民族」と言わずに<「われわれ」集団>と言っているのか詳細は不明だ。が、推察するに、「民族」という言葉が「血縁共同体」(Gemeinschaft〈独〉)を想起させるため、それを嫌ったということなのではないだろうか。《たとえば、バース党とナセルとの争いは、アラブ民族統一という共通のスローガンにもかかわらず、エジプトの指導のもとで民族統一を実現することをいさぎよしとしないエジプト以外の中近東諸国の反ナセル的感情と無関係ではないし、逆にこのナショナリズム間の争いは、エジプト・シリア・イラク各国のめまぐるしい分合(ぶんごう)の原因となって、「われわれ」集団の枠組みを勝手につくりかえているということができる》(武者小路、同) が、これは、<ナショナリズム間の争い>ではなく「国家間の争い」と言うべきであろう。国家は、「ナショナリズム」の違いを巡って相手国と競い合っているわけではない。ただ権力争いをしているだけだ。成程、戦うために、国家は「ナショナリズム」を高揚させはする。が、それはどちらの「ナショナリズム」が優れているか巡るようなものでは決してない。

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