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テーマ:時事問題評論(3131)
カテゴリ:時事問題
《ひめゆりをはじめ、旧制中学校や師範学校の生徒が1945年3月、学徒隊や鉄血勤皇隊、通信隊などとして組織化され、戦場に駆り出されたのは、まさしく日本軍の方針に基づくものだった。県も名簿提出のかたちで鉄血勤皇隊の動員に関わった。 45年5月末、時間稼ぎのための戦略持久戦を続けるために本島南部に撤退した日本軍と共に生徒たちも移動し、激しい地上戦の中で命を落とした。6月18日の解散命令以降、戦場に放り出された生徒は弾雨の中をさまよい、命を落とした。まさに日本軍の作戦よる犠牲である》(5月6日付琉球新報社説) 《西田氏は「日本軍がどんどん入ってきて」と述べた。沖縄戦前年の1944年、沖縄を米軍の防波堤にすべく県民を動員して飛行場や陣地を築き、戦場にも県民を駆り立てた。日本軍と沖縄戦の県民犠牲とは無関係ではない》(5月8日付琉球新報社説) ここまでは、まさに西田氏言う「文脈」通りの話である。問題は、その後である。 《「アメリカが入ってきて、沖縄が解放された」とも述べた。敗戦後の米軍駐留で天皇制、中央集権を旨とする日本の政治、社会構造は大きく変わった。ただ、沖縄においては80年前の米軍上陸から今日に至るまで基地の重圧が続き、女性に対する性暴力など人権侵害が後を絶たないのだ》(同) 私も米軍による沖縄開放論には違和感がある。戦後米軍が沖縄に駐留し続けていることもあって、必ずしも沖縄の人々が米軍を好意的に捉えてはいないだろうからである。ただし、沖縄戦に限って言えば、米軍が日本軍を打ち負かしたことで「解放された」と感じた人もいたであろうから、西田氏の意見を間違いだとも言い切れないだろう。よって、平和主義者側が問題視しているのは、沖縄の平和主義教育を西田議員が糾弾したことではないかと思われる。 《平和教育に対する偏見も許しがたい。 沖縄の平和教育は、惨禍を二度と繰り返さないという県民の決意、「軍隊は住民を守らない」という教訓を踏まえている。体験者証言と沖縄戦研究に基づき平和教育の実践がある。そこには沖縄戦のみならず、日本全体の平和教育にも通じる普遍性がある。 さらに言えば、沖縄戦の実相をゆがめようとしているのは国の側である。歴史教科書の検定の過程で、日本軍による住民虐殺や「集団自決」(強制集団死)に関する記述が削られたり、書き換えを強要されたりした。それに対し、超党派の県民運動で記述回復を求めたこともある》(5月6日付琉球新報社説) おそらく琉球新報社説子は、自分が「絶対善」の立場に居るとでも思っているのだろう。が、自分が絶対的に正しいと考えることほど危険なものはない。現実社会における平和は、絶対的なものではなく状況的なものだ。「戦争は悪、平和は善」などと空想するだけで、実際に平和を手に入れることは出来ない。状況に応じて、物事を多面的に判断する必要がある。が、硬直した「絶対善」の観念は、それを許さないのだ。【続】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.05.12 14:09:17
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