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テーマ:時事問題評論(3141)
カテゴリ:時事問題
《誰が見ても堂々と見える思想といふやうなものを僕はどうも信用出来ない。僕等はさういふものにどのくらゐうまく、ごまかされたか判らない。「巧言令色鮮仁」といふ言葉は有名です。然(しか)し巧言令色といふものも時代によって変ります。今日では雄弁だとか、美文などは信用する人はないでせう。だけれども今の人はすぐ理論を信じますよ。理論は現代に於(お)ける巧言令色です。美文が廃(すた)れれば理論がはびこります。つまり巧言令色がはびこることに於ては決して変りはない》(小林秀雄「歴史の魂」:『小林秀雄百年のヒント』(新潮社)生誕百年記念「新潮」4月臨時増刊、p. 115) 巧言令色鮮(すくな)し仁。(論語:学而第一) (言葉を巧(たく)みにし・外貌を飾って人を悦(よろこ)ばせようとすると、己の本心の徳がなくなってしまうものである)(宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)、p. 18) このような解釈に桑原武夫氏が異論を唱える。 《「子路第十三」の27に、「子日わく、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し」という言葉がある。孔子は礼楽を重んじながら、しかも表面的な行動のなめらかさを嫌い、いささか鈍重であっても毅然としたものへの好みをもっていたように思われる。 しかし、文学を学ぶとは内容を伝達するだけでなく、言葉を巧みにすることであり、礼儀作法を知るとは容色を柔らげることではないのか。家庭内において父母にたいするとき、巧言令色は孔子の立場からはむしろはめるべきことではなかろうか(「為政第二」8)。孔子は恋愛を語らないが、愛する異性にたいして私たちは不可避的に巧言令色となってしまう。人間性に明るい孔子が簡単に巧言令色を否定し去ったはずはない》(桑原武夫『論語』(ちくま文庫)、p. 13) 言葉遣いに気を配ることも大切であるが、だからといって言葉を「文(かざ)る」のは良くない。「巧言」とは、言葉巧みに思ってもないことを言うことであり、「令色」とは、愛想よく取り繕うことであるから、巧言令色は否定されて然(しか)りである。 《孔子は社会生活全般において粗野を奨励したのではない。それが一般原理として受けとられてしまい、特にことあげすることを好まない日本国民性の上に乗ったとき、はなはだ悪い影響を残したのではないかと思われる。真実は堂々と公言すべきである。しかし、正しいことならどんなにまずい表現で仏頂面をしてわめいてもよい、ということには決してならない》(同) 孔子は、「剛毅木訥は仁に近し」と言っているのであるから、強い意志と飾り気のない気性を好ましいとしたのである。それを勝手に〈粗野〉という言葉に置き換えて、否定しても始まらない。ましてや、〈正しいことならどんなにまずい表現で仏頂面をしてわめいてもよい〉などという話ではないことは言うまでもない。 《文明の社会とは、内容の真実を美しい形式と調和させる努力ということではなかろうか。儒教を基本とする中国、少なくともその読書人の世界では、そうした努力があったと考えられるが、素朴実在論を基調とする日本社会は、巧言令色を排撃するのあまり、個物における美的洗練は実現しえたけれども、社会的人間関係における洗練と調和を十分に育てえなかったのではなかろうか。秀れた言葉がまずい結果を生むことがあるのである》(同) が、孔子は、文るのは好(よ)くないと言っているだけであるから、巧言令色を嫌うということと〈内容の真実を美しい形式と調和させる〉ことは矛盾しない。桑原氏の指摘は、巧言令色という言葉の誤解に基づくものであろう。【続】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.06.15 10:00:06
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