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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2025.06.16
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カテゴリ:時事問題

小林氏は、

《スローガンといふものを離れて歴史が見られるやうになることは容易でない》(小林秀雄「歴史の魂」:『小林秀雄百年のヒント』(新潮社)生誕百年記念「新潮」4月臨時増刊、p. 115

と言う。

《歴史の新しい見方、或(あるい)は新しい解釈といふやうなものは非常に魅惑的なものです。何か非常に面白さうなことです。つまり巧言令色なのである。結局歴史といふものは決して新しい解釈だとか、現代的な考へ方といふやうなものでびくともするものではないといふことが僕には段々判つて来た。歴史といふものは僕らの現代の見方だとか、解釈といふやうなものでぐらつくやうな弱いものぢやありません。そんな事でビクともするものではない、さういふ事がわかつて来た》(同)

 戦後日本における「平和主義」は巧言令色のスローガンなのである。平和主義を唱えれば平和が得られると本気で思っているのかどうか分からないけれども、とにかく戦後日本人は、平和主義というスローガンに取り憑(つ)かれてしまっている。

《古典はどうして僕らに残つたのか。若(も)しも万葉集を現代的に解釈することが本当に正しいことであるならば、万葉集はなくなつてをりますよ。万葉集それ自体よりも解釈の方が立派なら、解釈の方が残つてをればいいぢやないか。だけれども残らない。万葉集はあの書いたその儘(まま)の姿を保つてゐる。昔あつたがまゝの形が今も眼の前にあるのだ。歴史も亦(また)形です。厳かな形である。その形といふものは、新解釈といふ様なものを通してはじめて解るといふものではない、歴史的遺品から僕等が直接感得するより他はないものであります》(同)

 古典と歴史を同列に扱うことは出来ない。古典作品は実存するが、歴史は解釈を施すことによって描かれるもので、謂わば「実体なき観念」でしかない。例えば、万葉集は昔も今も万葉集であることに変わりがないが、歴史は時代とともに変遷し、戦後は、戦前の皇国史観とは対極に位置する東京裁判史観となるといったことも起こり得るのだ。

 蓋(けだ)し、明治以降、日本の歴史は政治に翻弄(ほんろう)され続けてきたと言えるだろう。明治政府は、自己を正当化するために歴史を用いた。日本は天皇を中心とする神の国であるという歴史観、すなわち、「皇国史観」である。皇国史観が西欧列強を押し返すのに一役買ったことは間違いない。が、その行き過ぎが英米との衝突を生んでしまったこともまた事実であろう。

 日本は戦いに敗れた。そして、米国は、日本が再び脅威とならないよう、日本人に暗黒の歴史を刷り込んだ。それが東京裁判という政治的復讐劇で最高潮と迎えた歴史観、「東京裁判史観」である。以降、日本人は、自分たちが戦争を欲しなければ平和でいられるという「偏執病」(paranoia)的症状を呈している。侵略戦争は愚か自衛戦争をも否定し、もし他国が日本を侵略してくれば、白旗でもって迎え入れればよいという「妄想」(delusion)に支配されてた人さえ存在する。【続】






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Last updated  2025.06.16 10:00:06
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