カテゴリ:遊行期を生きる
今朝は5時起き
天気快晴 ひさしぶりに、西の空をパチリ 👆 ミチュ・ノン・ギンちゃんの住む加古川方面です 昨日は一日雨でした。 雨に喜ぶ紫陽花百景 昨日の診察結果は肺の出血は止まっているので、今は手術の必要なし。また出血するかもしれないけど、手術と天秤にかけると出血よほど出ない限り手術はしないほうがいいということ 多少の血痰は仕方なし。女先生と同じ結論でした。 残念だけど手術はやめて、病気と仲良く付き合うことにします。 遊行期を生きるのに、気管支拡張症を一つの武器にします 「自分革命」を起こす、発熱する言葉 たまには「わがまま」に生きてもいい 僕は高校時代にランボーに出会い、難解な半面、代表作『地獄の季節』の、この詩が大好きです。 「ある夜、俺は『美』を膝の上に座らせた。ーー ー苦々しい奴だと思ったーーー俺はおもいっきり毒づいてやった。俺は正義に対して武装した」 「自由なる自由」で自分を燃焼させろ この詩には「もう詩なんか書かないぞ」というランボーの決意が見てとれます。アルチュール・ランボーは、絶頂期にあった詩人ポール・ヴェルレーヌに認められて詩の世界にデビューしました。ヴェルレーヌは家庭を捨ててランボーと放浪の旅に出てしまうほど彼に傾倒。小説みたいです。若くして「遊行」を生きているのです。 人間ってこんなにおもしろいんだと思いました。ヴェルレーヌ夫人が「二人のなかは不穏当」と、離婚訴訟を起こすほどの仲だったといいいます。ランボーは、やがて詩の世界から離れたいと願うようになった。おそらく書くことに倦んでいたのかもしれません。 そして作品とともに自分の過去を葬り去る決意をしました。『地獄の季節』にはこんな言葉もあります。 「黄金の巨船は、頭の上で、朝風に色とりどりの旗を翻す。俺はありとあらゆる祭りを、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも務めた。この世を絶した力も得たと信じた。さて、いま、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、新しい栄光が消えて無くなるのだ」言葉がほとばしっています。爆発しています。滅茶苦茶です。大切なことは、このくらい自由でいいということです。自由でいいのだと教えてくれます。僕たちの生活や言葉が、どれだけかしこまって不自由でいるかがわかります。 この後ヴェルレーヌは、“縁切り”を納得せず、ランボーに銃を向けるのです。ランボーは左手に怪我をし、ヴェルレーヌは禁錮二年の刑がいい渡されます。直線的に人を愛している人間っていいなあと思いました。 「絶対自由」にこだわってみよう 自由になったランボーは、一気に『地獄の季節』を書き上げますが、この詩集は数人の知人に配られただけで、ほとんど日の目を見ずじまい。ようやく評判になったときには、ランボーにはもう死の影が忍び寄っていました。「さて、いま、俺の数々の想像と追憶とを葬り去らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ」という文面が、そんなランボーの姿勢を示しています。書きたいから書いただけ、結果はどうでもいいのだ、という強い意志が感じられます。 ランボーは、愛や苦悩や狂気の中で、「すべの毒を飲み尽くしても、いつか泥沼の苦しみの中で超人的な言葉を言語の中に与え、思考の賢者になるんだ」と言っています。 ランボーは言葉にこだわりました。言葉の中にパワーを封じ込めようと考えたのです。言葉には力があるのです。いい言葉はいい人生を生み出し、いい人生がいい言葉を生み出します。つまり、魅力的な言葉は魅力的な人生をつくります。「いま、僕は懸命に放蕩に励んでいます」というランボーの言葉もあります。 放蕩といっても、彼は酒や女にのめり込んでいません。人生の放蕩に励んでいたのです。彼が残した言葉です。「僕が、馬鹿みたいに大切にしているのは、『自由なる自由』です」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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