2013/04/19(金)16:10
1967年4月21日 ギリシャで陸軍によるクーデター。ギリシャ軍事政権が発足
1967年4月21日、ギリシャで陸軍によるクーデターが起きて、軍事政権が発足しました。
ギリシャは1946年から49年まで、ギリシャ共産党指導の反ナチ・レジスタンス組織と、英米の支援を受けた中道左派政府と民兵による内戦が続きました。
この政治対立の影響は、1970年代まで続いた事が背景にあるようです。
1958年の総選挙で、1946年に非合法化された共産党が支持する民主左派連合が第二党に議席を伸ばしました。
これは中道諸政党の連合を促し、1961年の選挙では中央同盟が33%の得票を獲得して第二党になりました。
中央同盟党首のゲオルギス・パパンドレウは「不屈の闘争」を宣言し、民主左翼連合とともに民主的な再選挙を要求しました。
2回の再選挙を経て1964年2月に中道単独政権が誕生し、パパンドレウ首相は内戦時代から収容されていた政治犯の釈放と、東側諸国との関係改善を進めました。
しかしギリシャを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていたアメリカ諜報部門と軍の右派勢力は、パパンドレウ首相に対して中傷作戦をスタートしました。
そもそも首相とギリシャ国王コンスタンディノス2世との間には確執があったとされています。
パパンドレウ首相は、息子アンドレアスへの中傷作戦「アスピタ事件」を理由に、国王に辞表を提出する賭けに出ましたがあっさりと受理されて中道政権は終了。
しかし国王が首相人事に介入して短期政権が続いた反動で、1967年5月の総選挙では中道同盟の勝利が確実視されるようになりました。
選挙を目前の1967年4月21日、軍の中堅将校らによるクーデターが勃発、国王は軍部臨時政権を承認し、アメリカもこれを認めました。
軍事政権は共産主義者と目された政治家や反対派らを追放・投獄・または軟禁状態にしました。
パパンドレウ元首相の息子アンドレアスはアメリカの圧力で国外退去に、父の元首相は1968年に亡くなるまで自宅軟禁されました。
同年12月13日、国王コンスタンディノス2世は逆クーデターを仕掛けようと軍の王党支持者を集めようとしましたが、陸軍の軍事政権への忠誠心は厚く、失敗。
国王一家のローマへの亡命で、1864年以来続いた「王冠を戴いた民主主義」は終わりました。
こうして軍事独裁政権が誕生しましたが、当時のギリシャは経済成長が続いていた影響か、反政府の動きは軽微だったとされています。
アメリカのニクソン政権は、戒厳令に反対を表明しながらも1968年1月に軍事政権を承認。
ソ連も軍事政権排除を求めなかったので、英仏・ベネルクス3国も黙認しました。
軍事政権内では軍事治安警察(ESA)の勢力が強く、彼らが組織的な拷問をしている事がだんだん明らかになっていきました。
その間ギリシャは観光国として経済成長を成し遂げましたが、国の経済はインフレとなり、1973年のオイルショックを経て年率30%もの厳しい状況となりました。
同年3月、学生らが大規模なデモを起こしてアテネ工科大学を占拠、さらに市民までも参加する騒ぎとなりました。
陸軍は戦車を投入してアテネ工科大学に突入して鎮圧。700名が逮捕されて負傷者数百名、死者80名が出ました。
この強硬な鎮圧作戦は将校らの反感を招き、軍事政権の後ろ盾である陸軍と軍事治安警察は国際社会で孤立し、11月に崩壊しました。
その後の裁判で軍事治安警察による虐殺と拷問の残虐行為が明らかとなって国民と国際社会を驚かせる事となりました。
リーマンショック後の2009年から2011年までギリシャ首相を務めたゲオルギアス・アンドレアス・パパンドレウ首相は、1964年就任のパパンドレウ首相が祖父、1981年就任のパパンドレウ首相が父であり、3代首相を務めた一族です。