歌劇『ピーター・グライムズ』
作曲ベンジャミン・ブリテン 台本モンタギュー・スレイター 演出ウィリー・デッカー指揮リチャード・アームストロング 東京フィルハーモニー交響楽団スチュアート・スケルトン スーザン・クリットン ジョナサン・サマーズすでに世界で高い評価を得たデッカー演出による、日本初公演だそうです。私がかつて見たのは1961年にブリテンの公私のパートナーであるテノール歌手ジョナサン・ピアーズがピーターを演じたもので、粗暴な男性の繊細な心を歌う「ハードボイルド・ヴァージョン」の舞台中継でした。この度のピーターが当たり役となったオーストラリア出身のスチュアート・スケルトンは、身体が大きくて子供の頃ラグビーをやっていそうな男性です。徒弟役の少年を両手で抱き上げたりの運動量が多い演技を良くこなしていました。自分の考えが先行するあまり人とうまく触れ合う事が出来ない男性の孤独を歌う、「アスペルガー・ヴァージョン」にふさわしい歌手と言えそうです。私が引っかかったのは、徒弟達を相次いで亡くした事を歌うピーターの歌詞です。The first one died, just died...The other slipped, and died....and the third will... "Accidental circumstances"...Water will drink his sorrows -my sorrows- dry And the tide will turn.幼くして亡くなった少年達の名を呼んで悼まず、同じ事を繰り返す自分を憐れむのは異常心理と呼べるのではないでしょうか。1989年に私は夫と結婚し、その後も働き続ける事を選びました。1990年のある週末夫と元町商店街を歩いていた時、元上司の姿を見かけて「あの人はOOさんではないか、家族で遊びに来たのかな」と話しをしました。その後自宅に時々無言電話がかかって来るようになったようです。夫が当直勤務のある土曜日の夜、2時間おきに深夜まで電話がかかって来る事がありました。次に住んでいたマンションの通路に大量のタバコの吸い殻が落ちていた事がありました。そして不審な男性がマンション内をうろつき住民について尋ねる事があったので管理人から警察に通報したとのお知らせがありました。当時我が家は賃貸で、表札に名字を出していませんでした。私が真っ先に考えたのは、夫が患者さんから妨害を受ける事でした。当時彼は高齢になって様々な疾病を抱えた複数の暴力団組員の診療に当たっていました。話しを聞いた夫は「これは僕とは関係無い」と言いました。問題のある患者達は、福祉手当を求めて障害レベルの引き上げなどを「病院で」せびるので自宅まで押しかける可能性が無いのだそうです。私はタバコの吸い殻は見た事がありましたが、不審男性は見た事がありませんでした。とりあえず無言電話に「もしもしOOです」と呼びかけて返事がなければ、1分経過したところでこちらから切る事にしました。1991年の3月頃には、私についてのウワサがかなり広まったようでした。元上司が私と何かあると話していたようでしたが、これはちょっと厄介でした。私が働き続ける事に反感を持っている課長から名古屋への転勤をほのめかされていたからです。週に2回以上の当直勤務と休日出勤をこなす夫と別れて転勤する事は、私には仕事を取るか結婚を取るかの選択を迫るのと同じ事のように受け止められました。ウワサの出所と内容を突きとめて苦情を言う事は、転勤を選択したと取られる可能性もあると考えました。また私が家庭を持った事も面倒でした。夫が私の会社に出向いて私と共に事情説明を行う可能性はゼロでした。1995年に自宅マンション購入の契約と引っ越し手続き全部を私に丸投げして働く超仕事人間でした。元上司が3世代世帯の主人である事を知っていましたので、そちらの人間関係が抑止力として働くのを期待する事としました。会社の運動会で見かけた夫人は、私より3歳くらい年下のとてもきれいな方でした。私は新しい課での為替デリバティブ取引の管理と為替のシステムトレードの仕組みに関心を持っており、課長に新しい業務に変わりたいと陳情するだけに留めました。このような事情の中、宴会で部長と課長の話し相手になったのは、ものすごいゴマスリ行為として大勢の社員から反感を持たれる事となり、上司と寝るのも当たり前の女とみなされたようです。病欠した女性社員のピンチヒッターとして3カ月ほどデリバティブ取引の実務を担当しましたが、取引量と優良取引先の少なさには驚きました。それでも新しい金融商品の実態を知る事が出来てうれしかったです。次に海外送金テレックスの管理の仕事を入社1年6カ月の女性総合職から引き継ぎましたが、これは私には感情的にかなりこたえました。語学に強い事で有名なカソリック系私大出身の彼女は、女性総合職第1期の私の対応にとても批判的だったそうです。「あんなにある事無い事言われても黙って働いているなんて、こんな会社辞めてやる」と周囲の女性社員に話していたそうです。外務省の外郭団体に転職する彼女は私に冷淡に接し、周囲の女性もそのような態度を取りました。私が文化大革命期のサバイバーの体験談に倣った対応は、かえって自らの孤立を招いたようでした。私はそんなに長く会社で働く事が出来ないようだと考えるようになりました。ディーリングルームの上司から夫の仕事を批判されたのは心外でした。また私が病院の近くを歩いていた時に、見知らぬ男性から夫に謝意を伝えて欲しいと挨拶されたのには驚きました。労働争議中に企業側の関係者から暴行された事を証明する診断書で民事裁判を起こす事が出来そうだと言われました。そんな時期に妊娠したのはラッキーだったのかもしれません。1992年8月が予定月だったので6月末まで働く旨を上司に告げましたが、出産退職になったのは想定外でした。