2020/07/08(水)17:30
★自由の女神、それはある彫刻家の野心からはじまった。
様々な人種と文化が共存する街ニューヨークは、何世紀にも渡って数多くの移民を迎え入れてきました。
新天地におりたった人々は、貧しくとも希望に満ちていて、そんな移民たちを1886年以降、港の入り口で迎え続けてきた像が「自由の女神」、アメリカのシンボルの一つです。
アメリカ的な女神像ですが、この地に辿り着けなかったかもしれない、という知られざる過去を秘めています。
<始まりはエジプト!?それはある彫刻家の野心からはじまった>
元々は「自由の女神」を作ろうと思って作ったものではないという。発端はフランスの若き彫刻家、フレデリック・オーギュスト・バルトルディ。彫刻家として成功をおさめた彼が、19世紀半ば、エジプトへ旅しスフィンクスやピラミッドに圧倒され、自らの手で後世に残るモニュメントを作ろうと決意、野心を抱いたことに始まる。
<最初はスエズ運河の入り口に建造する予定だった>
そこでバルトルディが目をつけたのが、当時建設が進んでいたエジプトのスエズ運河で、この入り口に台座に立ちトーチを掲げる女性の姿をした灯台を建設しようと思い立った。当時エジプトを治めていたイスマーイール・パシャに構想を持ちかけたものの、その頃のエジプトは破産状態で余裕はなく、結局バルトルディは野心を果たせないままフランスに帰国したのだった。
<捨てる神あれば拾う神あり?>
そんな傷心状態のバルトルディだったが、ある日転機が訪れる。フランスの高名な学者で政治家のエドゥアール・ド・ラブレーライエが支援を申し出たのだ。当時(19世紀)のフランスはナポレオン3世の専制政治に支配された自由のない国で、そこに不満を募らせていたラブレーはアメリカの自由と歴史を賛美し、アメリカ政府とフランス政府の同盟を推し進めようと働きかけていた。アメリカに自由を象徴するモニュメントを送る、というのは自由のない自国の指導者に対するあてつけの意味もあったのだろう。(事実フランス政府は自由という考えを警戒していた)
<自由をたたえる女神像になったのは過去の構想がきっかけ?>
支援を得られることになったバルトルディは昔エジプトに建てようとしていた像を、自由をたたえる女神の像にしてアメリカへの贈り物にしようと思いつく。この後、その資金を集めるためラブレーを責任者とする委員会が発足する。
バルトルディの方は大西洋を横断し、ニューヨークを視察し、そこで女神像を据える場所としてハドソン川の河口に近い、現在のアッパー・ニューヨーク湾にある島、リバティー島(Liberty Island)を選択する。
野望が一つ一つ現実に近づきはじめたバルトルティ。アメリカの有力者にあてた紹介状のみを携え「これから世界一巨大な像を造り私の決めた場所に建てます。台座の費用はそちらが出して下さい」と壮大な計画の売り込みにかかったり、人々を説得する為、女神像を灯台にする計画を復活させたりと奔走。アメリカ政府も灯台ならば今のリバティー島に建ててもよいと承諾した。
【今日のLifeHack:ウソをつくことで、一時的に何かがうまく回るかもしれません。しかし、ウソをついたという事実は、人々と自分自身の記憶の中に残ります、たかの友梨】