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★み~んな愛されるため生まれた★

★私がクリスチャンになるまでの証し★

★私がイエス様に出会うまでの証しを綴っていきたいと思います★

【生い立ち】
両親はクリスチャンではなかったのですが、プロテスタント系の大学の同級生同士だった両親から、なんとなーくイエス様のことを聞いたことはあったかもしれません。
母は賛美歌が好きだったようで、今思えば私が幼少期に聞いていた子守唄は讃美歌だったんだなぁと思う曲が何曲かありました。

【中学・高校】
小学校卒業まで東京で過ごした私は、父の仕事の関係で、中学入学と同時に京都に引っ越しました。お茶で有名な歴史のある町に家を構え、そこの公立中学に通い始めました。ところが京都人というのは、よそ者を受け付けない雰囲気があり、東京弁しか話せない私は、なじむのが大変でした。
中学3年間は吹奏楽部に熱中しながらも、この町を好きになれず、高校はカトリックの女学院を受験し、そこに進学することになりました。
キリスト教へのあこがれがあった私は、カトリック系の学校に入学できたことが嬉しくて、大勢のシスター達がいる環境で、ミサに出たりお祈りをしたりすることに妙にウキウキしていました。ただ、聖書を学んだりお祈りしても、イエス様の救いの意味はさっぱりわからず、クリスチャンは自分とは別世界に住む人たちなんだなぁと思っていただけでした。
毎回のミサでは、クリスチャンの生徒達はベールをかぶって前の方の席に私達とは別れて座り、聖餐式では司祭から直々に口の中にパンを入れてもらって一人一人祝福を受けていました。ノンクリスチャンの生徒達はただ後ろの方から眺めているだけで、なーんか疎外感がいつもありました。
私はいつも「クリスチャンなんて、ごく一部の特別に神様に選ばれた人たちで、私などはお呼びでないんだ…」という寂しい気持ちでいたように思います。一方聖歌隊に入り、クリスマス礼拝ではハレルヤコーラスなども盛大に賛美しましたが、この毎朝の朝礼で歌う聖歌というのが、文語体で古めかしい歌詞なので、あまり意味もよく理解できず、歌っていても内容がしっくりこない感じでした。いつもパイプオルガンに合わせて、ただ雰囲気だけで歌っていたに過ぎませんでした。

【大学・就職】
そんなわけで、あこがれだったカトリックの高校生活でしたが、大学受験を意識する時期になると、“もうこれ以上お嬢様学校はたくさんだ”と思うようになり、大学は全く宗教とは無縁のところに進学し、私は聖書からも離れることになります。大学3年の時にアメリカ西海岸で1ヶ月ホームスティをしたのですが、その時のホストマザーと日曜礼拝に行ったり、平日のバイブルスタディに参加したりしましたが、高校時代に知識として学んでいた聖書の延長に過ぎず、やはり自分には縁のない分野なんだなぁと感じていました。我が家では、母が英語塾を運営していた関係で、私が幼い頃から長年にわたって、海外からの留学生を受け入れるホストファミリーとして、様々な国籍の留学生達と寝食を共にして私は育ちました。その中には、宣教師の娘や牧師の娘などもいましたが、やはり私は彼女達も自分とは違う世界に住む人たちなんだと受けとめていました。でもクリスチャンへのあこがれみたいなものはずっとあって、クリスチャンに出会う度に尊敬の念をいだいていました。社会人になってからも、たまたまクリスマス・イヴの晩に、家の近くの教会でやっていたキャンドルサービスにふらっと立ち寄ってみたり、やはり“教会”というものがずっと気になる存在であったことは確かでした。
主人と結婚する時も、“式は絶対キリスト教がいい♪”と選んだし、やっぱり私にとってキリスト教以外の宗教は考えられませんでした。

【主人との出会い・結婚】
大学4年の時、就職活動中に知り合った主人とは、偶然同じ会社の内定式で会い、そして私がヨーロッパへの卒業旅行で訪れたパリで偶然ばったり再会したことから、なんとなくお付き合いが始まりました。卒業旅行では、私は1ヶ月間でヨーロッパ10カ国を周るという旅の途中に立ち寄ったパリで、たまたま翌日フライト予定だったエールフランス機がいきなりストライキのため欠航となり、急遽予定が空いたことから、彼と一日パリの美術館めぐりをしたことが初めてのデートらしいデートでした。

入社後、私達は新入社員研修のため2ヶ月間四国の研修センターに缶詰になりました。その間はちょくちょく顔を合わす機会のあった私達でしたが、いざ配属地発表になった時、私は「東京支店」で彼は「大阪支店」配属の辞令が出ました。そこから遠距離恋愛の始まり・・・。
当時JRのCMで流行っていた「シンデレラエクスプレス」そのものでした。
私は製薬会社の、当時まだ少数派だった女性総合職として赴任しましたが、毎週の東京ー大阪間の新幹線代&飛行機代と、毎晩の電話代でお互いの経済状況はかなり圧迫されていました。(当時の電話はNTTしかなく、Eメールというものもありませんでしたから…)

【結婚→共働き→忘れた頃に妊娠・・・】
結局私達は2年間の遠距離生活を経て結婚しました。
子供が6年間できなかったので、もう授からないものと思い、それならずっと共働き前提で!ということで大阪にマンションを購入しました。ところが引っ越す直前のお正月明けに阪神大震災があり、すでに完成間近だったマンションはかなりの被害を受け、引っ越す前に資産価値は大暴落しました。
まあ仕方がないなぁと思って住み始めてしばらくしたら、予想外にも妊娠発覚です!主人にそれを告げた時も「えっ?今更…?」と絶句していました。
我が家の教訓は“子供は忘れた頃にやって来る!”です。
共働き前提で組んだローンをどうしよう?いろんな不安がよぎりましたが、とにかく働けるギリギリまで働こうということで、妊婦生活が始まります。結婚してから、一度も専業主婦をやったことにない私は、家にこもる生活など想像もできず、毎日だんだん重くなってくるお腹をかかえて今までと変わらない勤務をしていたところ、ついに切迫早産の危険性から自宅での絶対安静生活を強いられることになり、生まれて初めての“専業主婦の始まり”でした。そしてその後無事出産し、長男が生後9ヶ月になった時、突然主人が北海道に転勤することになってしまったのです!
まだローンは30年以上あるのに、阪神大震災の影響もあって、住み始めてたった3年でマンションの相場は1000万以上下がり、売るに売れない状況のまま、そのまま北海道に引っ越しました。

【厳しい北海道生活の始まり】
引っ越したのは10月、もう北海道では冬の始まりです。慣れない北国の生活にいきなり放り込まれて、まだ0歳の長男をかかえて途方に暮れていたところ、なんとまた妊娠が判明したのです!6年間も子供が授からなかった私が、年子の子まで産むことになるなんて!…もう驚きでした。
誰一人知り合いのいない北海道での暮らしは、予想以上に大変でした。まず1年の半分近くが雪に覆われた生活になるので、ベビーカーは使えません。アイスバーンの雪道の運転もこわくてなかなかできず、赤ちゃん二人をかかえて、右往左往の毎日…もう育児ノイローゼでした。二人とも食が細い上に病弱でしょっちゅう高熱を出し、その度にタクシーで小児科に行く生活でした。雪の生活に慣れていない私は、家にひたすらこもる生活なので、人と知り合う機会もなく、本当に孤独で抑圧された生活でした。

【長男の入院・大きな試練】
そんな中、長男が3歳の時肺炎で入院することになってしまいました。毎日小児科には通っていたのに40℃近い高熱が10日間も続き、念のためということでレントゲンを撮ったところ、肺の影は真っ白…すでに肺炎はかなり重症化していました。そのまま日赤に転院した時には熱は41℃にもなり、本人は意識朦朧です。血液の炎症反応を表わす数値はCRP24にもなっていました。24時間点滴で抗生剤を静注投与されていましたが、なかなか高熱は下がらず、とうとう肺の組織の一部が壊死して空洞化してしまう「肺化膿症」という病気に悪化してしまいました。なんでこんなことになってしまったのか…!?毎日きちんと小児科に通って点滴を受けていたのに…。やりきれない思いと、長男の容態の悪さにオロオロして、私は自分の今の環境すべてを呪わずにはおられませんでした。京都にいる親も「北海道の気候が体に合っていないからではないか?」などと言い、私は誰一人頼る人のいない北海道で、絶望しかけていました。2週間の入院生活の間、私は毎日24時間病棟に付き添わなければなりませんでしたが、夫は多忙な仕事で不在だし、1歳半になったばかりの娘は仕方なく託児所に毎日預けるしかなかったのです。その上慣れない環境で娘までも発熱…でも他に頼るあてもなかったので、仕方なく座薬で無理矢理熱を下げてそのまま託児所で預かってもらう他ありませんでした。1歳半の娘が不憫でならないと同時に、肺に大きなダメージを受けてしまった長男のことを思うと胸が張り裂けそうでした。北海道に来たことが悪い!こんな孤独な環境で…、こんな極寒の地で…、なぜ…なぜ…?
誰にもぶつけられないこの張り裂けそうな思いで、夜中点滴の管につながれた長男のベッドに添い寝しながら、一人涙が止まりませんでした。

ー続くー


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