宮本常一
宮本常一の写真に読む「失われた昭和」 佐野眞一宮本常一氏は日本中を歩いてまわって日常の何気ない風景を撮り続けた民俗学者。その写真をもとに佐野眞一氏がコメント及び写真の読み方などを書いた一冊。以下の文は私のお気に入りの抜粋です。 宮本には子どもの世界を描いて心にしみいる哀切な作品がいくつもある。 子どもの頃、宮本は祖父の深い愛情につつまれて育った。宮本が五,六歳の頃、山奥の田んぼのほとりの小さな井戸に亀の子が一匹住んでいた。あるとき宮本は亀の子がいつまでもこんなにせまい所に閉じ込められていてはかわいそうだと思い祖父に頼んで井戸からあげてもらい、縄にくくって家にもって帰ろうとした。 ところが田んぼの畦道を歩いているうちに、だんだんと亀の子が気の毒になってきた。見知らぬところへ連れて行かれたらどんなに淋しい思いをするだろう。そう考えはじめるとたまらない気持ちになった。宮本は亀をさげたまま、突然、大声をあげて泣きだした。いま来た田んぼのほとりまでくると、野良仕事をしていた祖父は宮本をやさしくいたわりながら、「亀には亀の世間があるからのう」といって、亀を元の井戸に戻した。 これは「私の祖父」(「忘れられた日本人」所収)のなかに出てくる挿話だが、「亀には亀の世間があるからのう」という祖父の言葉には、生きとし生ける者に注がれた無限のいつくしみがある。 私はこの文章を何度も何度も読みました。ほんの数行の話ですがこの子どもの気持ちの移り変わりもすごいと思うんだけど、なんと言ってもおじいさんのあの一言は なかなか私なんぞ言えそうで言えない言葉です。ゆっくりとした時間の流れやなんとも言えないあたたかい空気が手に取るように伝わってきます。 そしてこの文章はこう続きます。 これには後日談がある。亀はその後大きくなって、井戸から出され、近くの谷川に放された。三十歳になった頃、宮本がたまたま故郷に戻ると、その亀はいつまでものこのこと宮本のあとを追って離れようとしなかった。