imimiのリトリーバル日記

2012/02/23(木)13:18

存在感について

今日は、存在感についてお話ししたいと思います。 ここでいう「存在感」とは、「私が今ここに確かに存在している。」のだという実感です。 これがどんなにか貴重な体験であり、命と結びついているのかについて、多くの人は忙しさのあまりに忘れ去ってしまっています。 昨日、万人が瞑想を求める必要はないと言いました。 私自身、普段は瞑想しません。 一応、普通に社会生活を送っています(笑)。 ですが、ブログに記事をアップする時に、ごくたまに瞑想したりします。 それは、精神統一というか意識を高次意識と同調しようとする際に、自然に、気がついたら瞑想に移行していた、そんな状態です。 そのままでも高次とコンタクトをとることは可能なのですが、私は高次からの情報を降ろしてくる時にはへミシンクをすると決めていますので(笑)、それからCDを聞きながらさらに深い変性意識に入っていきます。 我々は普段、五感に支配された生活をしているわけです。 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、というやつです。 私の場合、自然な移行によって五感から離れていきます。言いかえれば、心と体が求めることによってなされていくのですが、まずは姿勢と呼吸を整えていきます。 臍下丹田(へそ下三寸、さらにそこから奥に少し入ったところにある球状の領域)に意識を置きます。 この時、背骨はまっすぐにして、肩の力を抜きます。 そして、体の重心が、臍下丹田を真下に突き抜けた地点に落ちるようにします。 目は軽く閉じています。 この状態から、腹式呼吸に入ります。 逆ではなく、通常の腹式呼吸です。 ずっと、ゆっくりとした呼吸に意識を置いていきます。 何も考えません。 私の住んでいるところは田舎ですので、天気の良い日は少しだけ窓を開けていると、鳥のさえずりが聞こえてくるだけです。 ちなみに、夜は空を見上げれば満点の星空です。 私は小さいころからオリオン座を見つめてきましたが(魂の故郷はシリウスらしいです(笑))、今ほど美しいオリオン座を見たことはありません。 まあ、それは置いておいて(笑)、鳥のさえずりを聞きながら、私は自分の呼吸にフォーカスしていきます。 呼吸そのものに意識を置いていく感じです。 目を閉じた状態ですから、自分の呼吸の他には、鳥のさえずりがするだけで、何も感じません。 いわば、五感で感じる領域をせばめているわけです。 鳥のさえずりしか聞こえないほとんど静寂とした中で、自分は呼吸をして、自分の存在を確かめることができる至福の時。 自分自身が今ここに存在しているのだということをかみしめつつ、私はあらゆるものに感謝しました。 そして、ゆっくりと目を開けていきます。 その瞬間、閉じられていた視覚がその他の感覚とともによみがえっていきます。 すると、自分自身が今ここに存在していることが、強烈に感覚的に自分自身に伝わっていきます。 あー、この感覚を求めて、私は今ここに存在しているのだなと思いました。 自分自身がただ在るという状態。 そしてまた普通の日常に戻っていきます。 これはいわゆる瞑想に近い状態ですが、私はこれを瞑想とは呼びません。 瞑想という人間が作り出した分類にはあてはめません。 瞑想と呼んだ瞬間に、我々が時空による縛りを受けるのと同様に、我々が長い年月をかけて生みだしてきた信念体系の影響を受け始めていきます。 ただ在るという状態、これを噛みしめれば十分なわけです。 またそれは、どんな日常生活においても感じ取ることができる状態です。 何気ない日常生活の一コマの中で。 自分自身の存在を噛みしめるというのは、実はとてもスピリチュアルなことなんです。 ですが、それを実践している人は、スピ系以外の人にはいても、スピ系の人にはほとんどいないかもしれません。 なぜなら、多くのスピ系の人は、外の膨大な情報に振り回されてしまい、自分自身を深く見つめなおすということを軽視しているからです。 今日は、「存在」というテーマで皆さんとともに共有したいと思いました。ぜひ自分自身の存在を実感してみてください。 Some rights reserved by capelle79

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