春の覚醒
お花見の幹事を2回続けてやることもあり、論文の出来の悪さに「自己嫌悪」に陥っていたこともあって、長く精神的に低調が続いていましたが、やや脱出かな。まあ、また明日起きれば低調かも。大分前(20世紀末)に、韓国旅行で買ってきた高麗人参茶を同居人が見つけ出し、飲みはじめたのも良かった気がする。老化というのは体力というよりまさに気力の低下だと思うので、人参茶のおかげで「やる気」がじょじょに出てきた気がします。論文で書き足りなかったこと、書けなかったこと、今後の勉強ということも考えて、考えたことを綴るブログを始めようと思っています。これは、実名ベースで行くか匿名で行くか迷ってますが、どこかの無料ブログを利用して作っていくつもりです。さてさて、やはり、世の中に「自己嫌悪」ほど始末の悪いものはないですね。自分は「自分」から出ることはできないのですが、その「自分」に「自分」が見放されればそれはもう、「生ける屍」状態です。自分も、大学院も終わって目標を失った感もあり、「ああどうせ、この先さらに年をとってもいいこともないし、衰えるばかりだから。。。」などと、考えてこのところふさぎ込みがちでした。まあ、いいことがないかどうかは別として、知力、体力、金力?などなど、衰えていくことは、まあそのとおりでなのでしょうが、「いいこともないし」というのは、行き過ぎた考えでしょう。ただ「食べたいもの」「行きたいところ」といった欲求のメニューが減ってきているのも事実で、さらにアマゾンなどで本などを買いすぎてしまい、ガソリンも値上がりするし、土日なども家が一番というような生活をこのところ続けていたのです。やはり、人生、「先立つものは金」というのは、ある程度の真理ですね。何といっても「衝動買い」を得意技としていた私だけに、ときどき、アイデアも欲望もそのトークン?というかメディア(ここでは形代といった意味)としての「金」も底をついてしまうわけです。そして、やはり現在の日本は、大げさか。自分の住宅ローンや子どもの教育費、そして老後の経済的基盤などを考えていくと、私のような無計画な人間は、近づいてきた老後(経済的、健康的、意味論的、認知的、親の介護など含めて)やっていけるだろうかと漠然とした不安に取り付かれてしまったりするわけです。まあ、しかし、どこかでつい最近、日本人は「お金が問題じゃない」的なことを多く言うのが特徴、という記事を見た気がします。それって逆にホリエモン的な「お金がすべて」という社会の裏返し、つまり鏡的現象かもしれませんけど。この数ヶ月のお金を使わない生活をしていると、当たり前のことですがお金をかけずに楽しめることはいくらでもあるということです。例えば、ヨガなども、自分一人でできるし、犬の散歩も楽しめればいいですね。でも、毎日やらないとと義務に感じるとつらくなってしまいます。テレビもタダで見られるから本当は娯楽の王様です。それでいうと、ネットは実は、すごくお金がかかります。ケータイ、スマホ、さらに家の光回線と子どものケータイ代。そういった「通信費」の負担が「定額」で家計を圧迫してくる。(あららら、お金がかからずに楽しめることを列挙しようと思ったらまた、お金の話しになっていた。)さっきも少し書きましたが、楽しみと義務(苦痛)というのは、あざなえる縄のごときものですね。例えば、「園芸」。前の家は、庭が狭くてというか庭というよりとなりとの隙間と言う感じでしたが、そのため玄関の階段で鉢植えや盆栽にせいをだしていたのですが、今の家には、まがいなりにも庭がある。これが、最初のうちはうれしかったのですが、結構、雑草の除去や庭木の剪定、落ち葉の掃除など手入れが大変です。そのかわり、サクランボやブドウがなったりと楽しみもある。だけど、楽しみだけを手にすることはできない。これはすべてのものに通じる真理ではないでしょうか?「苦労」(は言い過ぎか?)なくして「楽しみ」なし。てか「楽あれば苦あり」これは「苦あれば楽あり」ともいうらしいけど。犬もそうですね。かわいいかわいいと言ってる一方で、旅行に簡単に行けないとか、いいことがあれば必ず悪いこともあるわけです。ひょっとしたらプラスマイナス零なのかとも思いますが、そういうネガティブな気持ちになって何もやらずにじっと過ごしていると、「生ける屍」のようになってしまうことになるのでしょう。でも、犬で言えば、毎朝、早起きして散歩に行くという習慣は何にも代え難き、健康というものをもたらしてくれます。自分のような怠惰な人間は例えば、定年退職したら、家に閉じこもってだらだらしてしまいそうですが、犬がいればそんな心配はいらないし、実際に、冬の間も犬が催促してくれるので、もう1年以上、大雨の日は別として散歩に行くことができています。ただし、犬の散歩も最初のうちは、こんどはあっちの公園に行ってみよう、とか積極的にいろんなとこに行っていましたが、最近ではコースも決まってしまってマンネリ気味です。これも、マンネリをあまり悪く捉えずに継続は力なりと、良く捉えた方が良いのでしょうか?例えば、「別荘」的なものも、だんだんと管理費とかが負担に感じてきて、「別荘がなければ、いろんなところに行けるのにとか、マンネリの特徴は、当初見えていた利点が忘れられ、欠点ばかりが目につくという「現象」ですね。最初のうちは、予約しなくていつでもいけるし、なんといっても贅沢な気分とかが味わえるのに、それを忘れて、負担に感じてくる。これって何なんだろう。想像するに人間のDNAにマンネリ遺伝子的なものが組み込まれていてある程度なれると新しいことに挑戦したくなるようなゲノムが含まれているのではないでしょうか?例えば、中世ヨーロッパなんて、宗教的にきちんと完結した世界で、まあ封建的な身分制度はあったのでしょうが、極端な話し、それを永遠に続けると言ったことも可能だった気もするのですが、まあそれがためにいわゆる「進歩」というのがなくなって、イスラム帝国やトルコに攻められたりして、みたいなことがあったのかな?ちょっと世界史的にはいい加減なことを書いてるかもしれないけど、でもまあそういった世界に飽き足りない??コロンブスとかが、航海にでるようになったりして、「良い方向かどうかは別として」世界は今のような形になってきた。たしかに、良いかどうかは別として、サステナビリティ(持続=自足)という話しは「進歩(=成長)主義」の対局にある話しで、ただし、当然のことながら、自足(?収奪?)的集団と競争主義(拡張主義)集団が戦争とか経済競争をすると普通は競争主義が勝つのが必然であるのでしょう。数百人のピサロの軍隊に滅ぼされた数万人のインカ帝国とか。(ペリーの黒船とか。)犬の散歩からとんでもない話しにひろがったけど、福島原発事故とその後の再稼働などの問題も結局は、こういうところまで話し(問題圏)は広がってくるわけで、心のあり方の問題でもあり、世界史的な問題でもある。ブータンのような(心の)幸せ主義のコミュニティが、安心して生存できる世界のあり方を考える必要があるのでしょう。「資本主義」を支えてきた消費行動というのは、基本的にずばり「物欲」だから、犬とか園芸と言ったお金のかからない「楽しみ*」(*いづれも平和文化主義が花開いた江戸時代に象徴的事例)と違って、飽きたら捨てて、あたらしい「もの」を買えば良いということで、大量生産、大量消費社会をその前提とし、だからエコカーとかエコ家電とかいってさらに廃車や家電ゴミの山を築き、問題を先送りにしてきたのだが、東日本大震災でのああいったカタストロフ(破局)が起こるにいたって、いつまでもこんなことが続くはずがないという当たり前の事実への覚醒と、これまでのあり方への反省を迫ってきている。「誰が」(主語=主体)が迫ってきているのか?かつてなら「神」がと人間は考えたであろう。今回は「天罰」といった保守系の政治家もいた。「地球」が、という擬人的な表現をする人もいるであろう。この「誰が」が、わかれば。その追求は、いわば、ニーチェが殺した「神」を復活させる、べきパフォーマンスとなるでしょう。