vol.14 ~ vol.19< 輪廻と業 >輪廻説は古代インドの民間信仰だ。 人間の本質は霊魂で、生前の業を背負って、それに応じた場所に生まれ変わる。 生まれ変わる場所は? ⇔ 4つの世界 天界(善行を為した人) ↓ 人間界 ↓ 阿修羅世界(ただ闘い続ける世界) ↓ 畜生界 ↓ 餓鬼世界 ↓ 地獄(悪人の落ちる場所) さらに仏教では、2つの世界が登場する、それが緑字部分だ。 この6つを 六道輪廻 という。 死後、どの世界に生まれ変わるかは「業」=karman=カルマがものをいう カルマ(カルマン)は、「行為」と「行為が後世に残す影響力」の2つの意味がある。 どの世界に生まれ変わっても、当然、善悪の行為はありそれなりの力を残すために、 その力により、いずれかの死後世界に再生し、かぎりなく死と再生を繰り返していく。 これが 輪廻転生 である。 次回から、この輪廻転生がいかに今を生きる人たちに苛烈な運命を強いたかを書いていきます。 < 輪廻転生と業と差別 > カルマの力=業力の働き方には2大鉄則がある。 1、自業自得・・・宿命論 自分の行為の結果は自分で責任を負う⇔自分の今の状況は行為の結果 ⇔今更どうしようもない 1、業果の必然性 果報を引くべき行為は果報を引くまでは決して消えない。 「業」は「善因善果、悪因悪果」として働いてしまう。 そして業理論は、インド・ウッタル・プラディーシュ州では、 借金を残して死ぬと金を借りた人の家の牛に生まれるなどという。 そして考え方が、いろいろ出てきて、盗みをするとネズミになるや 社会に寄与しない人間は貧しい環境に生まれるなどと位置づける。 この因と果を結ぶ根拠はまったくなく、一般論として 「因→果」を述べる形を取りながら、実は現実の状況の 理由付けをしているわけでしかないのだ。 そう、私が例えば奴隷なのは、過去の業による だから現世では、この苦をあまんじて受け、来世にかけるなどという考え方。 そしてこれは容易に差別的発想に陥っていくのである。 な ぜ な ら 現在(その当時のインドの差別制度)を正当化しているだけでしかないからだ。 次回は、輪廻・業説の功罪です。 < 輪廻と業説の功罪 > 輪廻・業説には現世の不公平の原因を過去世の業だということで 自分を納得させる機能がある。 それと同時に、死・生まれ変わりの長~いスパンで人間の生命を考えるので 現世で善業をなせば明るい来世が期待されるということで 「宿命論」が解消される面もある。 この考え方はある意味、なぜ良い事をするのか、 なぜ悪い事をしてはいけないかという倫理的行為の根拠を与えている。 しかし、社会的に弱い立場の人には過酷な論理となってしまうのだ。 つまり、いま、カースト制度最下層の人間は、 過去にバラモンを殺したからなどと理由付けられた。 現世の差別状況は、是正されなくてはならないのに、前世の悪行のためとして 輪廻・業の面から説明し差別性を宗教の名前で説明してしまったのだ。 身体的障害などについても、このような安易な因果関係で差別的見方を容認したのだ。 現代の日本の価値観で過去⇔現在⇔未来の輪廻を考えれば、問題ないかもしれない しかし、インド信仰の輪廻転生は、社会背景から考えれば、差別社会の保持であり そこに潜む闇の部分を認めなくては、現実社会における輪廻転生を認めることはできないと考える。 *このインド社会の難しさについて「さくらんぼのハハさん」に 「女盗賊プーラン」(本・ビデオ映画)という物語を紹介していただきました。 私はまだ観ておりませんが、いずれ観ようと考えています。 残虐、虐待シーンが苦手なので、どうしよう・・・ 次回は、お釈迦さんの教えと功徳の精神・・・ 「絵は臨済宗妙心寺派正圓寺さんから転載しました」 善業・悪業はしばしば功徳と悪徳と置き換えられる。 これは、これこれの行為をするとこれだけの功徳が積めると 数量的に理解されやすいからともいえる。 この功徳の意義は大きく、死後の世界、死の恐怖の克服 功徳を積むために布施とか正しい行為をしなくてはならない それが人としてあるべき姿と受け止められている。 実際、この頃の営みは仏教本来の信仰の生活よりも 輪廻を前提とする功徳をめぐって人々の社会生活は行われていたようだ。 し か し お釈迦さんは、現世における苦と不安の解消を目指した人である。 だから、お釈迦さんの教えでは死後の命運・世界は大した重要性はもってないのだ。 それゆえにお釈迦さんは、出家者には功徳を積んで死後に天に生まれる事を望むなと説いている。 古代の仏教文献も 「功徳→生天」は世間レベルでの善業であり、 出家者の修行である「梵行→涅槃」は出世間レベルの善業であるとし、 両者の間に宗教レベルの差があることを自認しているのだ。 現世に心の平安を求める涅槃の生き方はお釈迦さんの教えの本質だ。 また功徳を積んで、幸せを願う生き方は、庶民に受け入れられやすく発展した。 この2つは対立するものではなく背後に潜む歴史性を認識しながら、 こちらが受取る必要性があるだろう。 *涅槃とは煩悩を火にたとえ、その火が吹き消された状態、安らかな悟りの境地をいう。 また生命の火が吹き消された、の意味で死のことを言う。 例えば、お釈迦さんの死を指して「涅槃に入る」など。 のち、悟りの境地をとしての涅槃を実現した釈迦仏も、肉体を持っている限りは 老いや病などの苦しみからまぬがれ得ず、死去(入滅)ののち、より完全な涅槃である 「無余涅槃」が得られたとされるようになり、これに伴って、煩悩は断たれたが、 まだ肉体上の束縛を残している状態を「有余涅槃」と称するようになった。 お釈迦さんの説いた「生きる道」、例え話をほとんど出さなかったので かなり難解な文章になってしまったかもしれません。 彼が何に悩み、苦しんだのか、そしてどうやって涅槃に至ったのかは 現代の私たちには大変有用であると思います。 なぜなら、ひとりの人間が、私たちと同じ人間が出したひとつの答えだからです。 そう、神様でもなければ悪魔でもない、ひとりの人間が苦悩の末に出した教えだからです。 これにて、お釈迦さん第一部は終了とさせていただきます。 また、お釈迦さんは、こう説いています。 私たちの人生の出来事は生滅を繰り返しています(無常)。 一喜一憂することばかりですが、とくに苦や悲は心を傷つけます。 心の傷は癒されなければなりませんが、そのためにはすでに起こってしまったことや 間近に起こることが確実(死)なことには逃げずに直面するしかないのです。 逃げ出していたら、心の傷は癒されないのですから・・・。 つまり、無常に出合っている現実を直視し、「今」を最大限に前向きに生きる 努力を続けるところにかえって悲しみや苦しみを乗り越えていく強さがでてくるのです。 これは知識などではありません、 そう毎日を無常に身を投じて生きていく実践的なプロセスです。 次回は、後記2・・・ 有名な経典 「スッタニパータ」、ということで一部分紹介して後記と致します。 「犀の角(さいのつの)」 四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、 諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。 犀の角のごく一部をご紹介しました、いずれ全文を載せようとも思います。 読んで頭に浮かぶのは宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」でしょうか。 第一部 完 ↑ ↑ ご一読ありがとうございます、是非ともクリックをお願い致します。 ジャンル別一覧
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