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一 夢 庵 風 流 日 記

原子爆弾 ~広島・長崎~ 

原爆の悲惨さや怖さをここで論じるつもりはない。
一体、なぜ原爆は日本に落とされたのか?
落とされなければならなかったのか?

米国は「この新型爆弾により米国民100万人の命が救われ、世界に平和が訪れた」と今でも伝え続けている。
私はこれに対し大いに疑問を感じている。



<原子爆弾 開発までの道のり>


1939年8月
F.D.ルーズベルトにアインシュタインが「ヒトラーよりも先に原爆を造るべき」と提言。2通あり、草案はレオ・シラード博士。
この後9月1日、第二次世界大戦が勃発、ここで米国はマンハッタン計画(原爆開発)をニューメキシコ州、ロスアラモスで開始。
この頃、ドイツ第三帝国でも原爆は開発されていたが、まったくと言っていいほど進行しない。
理由は原爆開発はユダヤ的物理学であり、さらに電撃戦が重くみられ長期開発期間を余儀されなく原爆は資金繰りもあり軽視される。
ドイツ・ハイガーロッホの地下に存在した原子炉建設を1945年4月に制圧した米国は記している。
「ドイツの原爆開発は実験段階まで、程遠い」(1945 米国陸軍資料)

この後、ドイツ第三帝国は5月7日に連合側に無条件降伏する。

ここに至り、マンハッタン計画(動員数13万人、開発費用20億ドル 現在価値にして2兆5千億)は水泡に帰すこととなる、

なぜなら、元々はドイツ第三帝国を対象にこの計画を進めていたのだから。




< 大きな転換点 >


1945年4月12日ルーズベルトが死去して第33代トルーマン大統領が生まれる
このトルーマンは外交、政治経験が乏しかった未熟な大統領であった。ゆえに原爆推進派ジェームス・バーンズに翻弄される。
日本は1944年7月20日、東条退陣、小磯へ大命降下。
そして翌年の4月7日、小磯内閣総辞職となり鈴木貫太郎内閣成立する。
戦艦大和はこの日撃沈されている。

米国に戻り、1945年5月12日 
目標検討委員会メモにはこの日、目標地域が草案されている。
1.京都 2.広島 3.横浜 4.小倉

アインシュタインらとともに原爆開発を米国に進言したレオ・シラード博士はここで原爆開発反対にまわることとなる、
理由は「ドイツ軍が我々に何をしでかすか心配することがなくなったら、今度は米国が他の国に何をしでかすか、
それが心配になってきた」と彼は語っている。
つまり防衛手段の原爆が攻撃につかわれることを危惧したのであった。

1945年6月
シラード博士はJ・バーンズに必死に原爆開発反対を説く書簡を渡し
トルーマンに渡すように求めるが
バーンズは議会対策と外交関係を持ち出し否決する。
議会対策とはこれまでどれだけの予算をかけたか、それを使わなければ議会にどんな訴追を受けることとなるのか。
外交関係はソ連との覇権争いを意味する。

しかしシラード博士はあきらめずに反対の嘆願書(約150名)をトルーマン大統領に出そうとするが、
各所でたらい回しにされ渡されなかった。




<米国政府内の混乱 推進派と反対派の確執>


1945年5月28日
ジョセフ・グルー(国務長官代理)は10年ほど日本に大使として滞在していたこともあり日本事情に詳しく、
トルーマンに対し「天皇制さえ護持すれば必ず降伏は早まる」と明言し、国体護持の重要性を説く。

1945年6月1日
J・バーンズは会議にて原爆投下を強行に主張する。
これに対し、グルーはトルーマンへ「早期に条件付降伏勧告を出すべき」と
再度、直々に進言する。

1945年6月18日
この日の午後に対日戦略会議が行われ、トルーマンは会議に参加しながらまったく口を開かない
ジョン・マックロイ陸軍次官補に意見を述べよと詰め寄ると
彼は「日本に原爆投下の事前通告を行い、それでも降伏しないようなら投下を」と事前通告の重要性を発言する、
それに対しバーンズが「事前通告は米国の弱さを見せるもの」「原爆投下前に天皇制を保障し降伏を呼びかけることには反対だ」と強烈に反対意見を述べる。

このときラルフ・バード海軍次官は「警告もなしに100万人もの人々を殺害することはフェアではない、反対だ」と発言する。
しかしながらトルーマンは就任当初からのバーンズとの関係性を示すかのように原爆反対派の意見に耳を貸そうとはしなかった。
(バード海軍次官は大統領に失望し、辞任する)




<大日本帝国 当てにならないソ連を頼る>


1945年6月23日
沖縄が陥落(戦死者 日本兵9万4千 民間人9万4千 米兵1万2千)

1945年6月8日
この日の御前会議では「本土決戦、徹底抗戦」を確認する。

1945年6月22日
この日の午後3時の御前会議 6名の閣僚が出席、顔ぶれは
鈴木貫太郎総理、米内光政海軍大臣、阿南惟幾陸軍大臣
東郷茂徳外務大臣、梅津美治朗陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長 以上。
ここで簡略した会議の様子
陛下「6月8日を覆し、降伏も頭に入れるように」
鈴木「戦争完遂しながら外交もすすめる所存であります」
陛下「では日取りはいつだ?」
東郷「7月初めであります」

鈴木の外交もすすめるとはソ連を仲介として和平へとすすめるの意であり
ここに至り終戦を決めたのである。

当時のソ連外相モロトフメモには「国民の被害が増えるのを不安に思い、天皇は速やかな平和の回復を願っている」と綴ってあり、
また日本国からソ連への親書には「日本国民ひいては世界の犠牲者を増やさぬためにも天皇は和平を希望しておられる」と書いてあった。

しかしながら、ソ連スターリンは北海道をソ連の一部にしようとしていたのであった。
それを示す証拠として、ソ連、アメリカは2月のヤルタ会談にてソ連の対日参戦の密約をしていたのである。
当時、日ソ中立条約が結ばれており、ソ連が対日参戦することは信義にもとる最低の行為なのであるが、
すでに2月の時点で裏切ることを確約していたのである。




<追い詰められる大日本帝国>


1945年7月13日
日本政府がソ連の日本大使館あてに送った暗号電文を米国が傍受。
「天皇陛下は心より早期終戦を望んでおられる、ただし無条件降伏を主張するなら最後まで戦い抜く」
(⇔戦争はやめたい、国体護持さえしてくれれば早期終結に全力を注ぐ)
原爆反対派のジョセフ・グルー国務長官代理は、これを読んで、
「早期講和の道は開かれている」と確信して、当初からの国体護持という条件降伏を提案することを強く推す。

1945年7月16日
午前5時29分 原子爆弾実験
ある程度の成功をおさめたという情報が、この頃、ポツダムにいたトルーマンに届けられる。
つまりこの時点で原爆という後に人類史上最悪の汚点と被害をもたらす新兵器を彼は手に入れていた。

1945年7月17日
ソ連、ヨシフ・スターリンは8月15日に対日参戦の意向をトルーマンに伝える。ここで恐らくトルーマンは原爆投下を決めたと思われる。
トルーマン日記には
「ソ連参戦の前にジャップは手を上げると信じている」
「原爆が自国(日本国)の上空に出現したとき、やつらが降伏するのは間違いない」とある。

1945年7月25日
原爆投下命令書をトルーマンは承認、このとき目標地域は
広島、小倉、新潟、長崎である。

1945年7月26日
連合側から日本政府にポツダム宣言が出される。
バーンズ国務長官は、7月2日にスチムソンが大統領に提案したポツダム宣言草案にあった
「日本国民の総意を代表する平和志向で責任ある政府が疑いの余地なく樹立され‥‥‥‥平和を愛する国々が確信を持てれば、
現在の皇室の下で立憲君主制ということもありうる」という文言を削り、7月18日に統合参謀本部が
大統領に勧告した「さらなる侵略行為が行われないというしかるべき保証を前提として、
日本国民は自らの統治形態を自由に選択することができる」という文言も拒否し、
ただひたすら無条件降伏を要求するという内容にこの時点で変容していた。

1945年7月28日
読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」
「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。
鈴木首相は28日に記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞29日付け)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。
ここにきて最終局面における日米打開策はほぼ0%となり、原爆投下は現実のものとなるのである。

1945年7月31日
原子爆弾はサンフランシスコから対日攻撃基地サイパン、テニアン島に航路で運ばれ、最終部品が届くのが31日である。

1945年8月2日
この時点での目標都市は広島・新潟・小倉・長崎であり、第一目標は広島。
空から分かりやすいT字型の橋、広島市中心部の相生橋が投下ポイント。

1945年8月4日
原爆投下作戦部隊長ポール・ティベッツ大佐(29)から本作戦のGOサインが本国より出たと部下に説明される。
投下地域は、1.広島 2.小倉 3.長崎 優先順位もこの通り。
このときの説明で、投下炸裂後、半径2.5キロ以内はすべて跡形も無く無くなり、
その威力により戦争終結は半年は早まると鼓舞して、原爆投下を正義の作戦と扇動している。
この翌日、B29が1機墜落炎上して安全性が疑問になる。
兵器専門パーソンズ大佐は離陸後に機内にて原爆を組み立てることを決める。


                                juk

<原爆投下>


1945年8月6日 
AM0:00  1番機エノラゲイを含む全4機にて作戦確認。
AM1:45  テニアン島基地離陸 パーソンズは機内にて原爆組み立て。
AM7:15  エノラゲイに広島は天候良との報告が入る。
        この偵察機に対し広島では空襲警報が発令される。
AM7:31  広島、空襲警報解除。防空壕などから安心して出てきた人々は通常の生活に復帰していく。
AM8:15  エノラゲイ、高度9000より原子爆弾を35万都市広島に投下する。
        43秒後、地上600メートル旧広島県産業奨励館(現原爆ドーム)上空にて炸裂。

このときの炸裂中心部は100万度を超え太陽より熱く、約10秒後、その衝撃波により半径2キロは全壊、生存者はわずか。
炸裂30分後、どろどろと粘り気のある黒い雨が広島に降る。
その頃、ポツダムから帰国中であったトルーマンは巡洋艦オーガスタ上にて、
「原子爆弾を広島に落とし、完璧に消滅」という報告を聞くこととなる。




<そして長崎へ>


インプロージョン式プルトニウム爆弾ファットマンは元々、8月11日に投下される予定であったが、8月9日に変更される。
ファットマンは7月16日にトリニティにて実験成功していたが、その構造はリトルボーイをはるかに凌ぎ複雑でデリケートであった。
ファットマン搭載のB29は「ボッグズ・カー」と呼ばれ、主パイロットはチャールズ・スイーニー中佐。
そして投下予定地域は「小倉」であった。




<二発目の原爆が日本に・・・>


1945年8月9日
AM3:47 
ボッグズ・カー小倉に向かいテニアン島を出撃、護衛機はB29二機。
燃料ポンプの誤作動、さらに小倉の天気が悪く視界ゼロということで小倉上空を行ったり来たりするが善良なる神様のご加護か、
天候の回復する様子はない。
残燃料と索敵に捕まる恐れから、目標地を急遽「長崎」に変更、しかしながらここでも神は日本に味方して天候は悪状況。
ここでレーダーに頼り、ボッグズ・カーは投下を決意、その瞬間悪魔のいたずらか雲の中にポッカリと穴が開いた。

AM11:02 スイーニー中佐、ファットマンを長崎に投下。

ファットマンの威力はリトルボーイを凌いだが、平らな地形の広島と異なり、長崎という起伏ある地域が被害を抑えた。
また地形の起伏が原爆の衝撃波をあちこちに反射させ、ボッグズ・カーは5度ほど衝撃波を受けている。
このニュースを聞いたソ連はすぐに日ソ不可侵条約を一方的に破り、対日侵攻を開始する。

原子爆弾投下後、12月までの半年間での犠牲死者数は「広島14万人、長崎7万人」である、
当然これには負傷者の数は入っていない、また被爆後、原爆症による死者数も入っていない。

この後、大日本帝国は1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ敗戦をむかえることとなる。
もし、御聖断による無条件降伏受け入れがなければ米国は原子爆弾をあと2~3発落とすと決めていたのだ。


                 juu


私たち日本人の中には、広島・長崎の原爆投下を大日本帝国上層部が
ポツダム宣言受諾を渋ったために起きてしまったという大いなる事実誤解をしている人がいる。

一部隊に無条件投降を呼びかけることはあっても
独立国家に敗戦条件として無条件降伏を受け入れろと強要すれば
受け入れる側が納得しないというのはその当時、当然のことだったのだ
もちろん連合国側もそれは知っていた。

現在の観点からすれば、原爆被害も史実も知っているので「もっと早く降伏しておけば」
「なんで戦争したんだ?」と首を傾げることは多いであろう。
しかし原爆投下は聖戦のために使われたものなんかではない、単に米国の内政事情(マンハッタン計画の頓挫)と大戦後の世界パワー支配のために使用されたのだ。

その事実を知っておかなければ、必ずまた同じ過ちを繰り返すことになる。
広島の平和公園原爆慰霊碑に刻んである言葉

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

この言葉が表す意味を深く考えてみる必要が世界中の人にはあると思う。



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(2005年9月13日現在)

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