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一 夢 庵 風 流 日 記

大和の時代

  こちらも日記よりの転載です。

 映画「男たちの大和」が間もなく公開となる。
 そこで、映画を楽しむために「大和」の時代を簡単に予習しておいたほうがいいだろう。
 
 よく日本国のたましい「大和」と言われるが、「大和」が日本国の象徴と考えるのは、
 一部の軍人でしかなかった。なぜなら、「大和」自体秘密の戦艦であったからだ。

 「大和(計画名A140F6)」は1937年11月4日、呉市の呉海軍工廠で起工された。
 
 仮想敵国アメリカに本型を超える戦艦を造らせない為に、秘密裏に建造されたのだ。
 当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。
 建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい
 機密保持のために管制下におかれた。
 
 そして1940年8月8日進水、その時海軍大臣代理より「大和」と発表される。

 ここに我が国の技術の粋の結晶、世界初の46センチ3連装主砲を装備した、
 超ド級最強最高の戦艦が、此の世に生を受けたわけだが、実は、この何年も前から
 海軍内(井上成美山本五十六筆頭)では、もはや大艦巨砲の時代ではなく、
 空母の重要性、航空戦略の必然性が説かれていた。

 そのような先見の意見を押し切り、誕生した「大和」
 その出で立ちとはかけ離れた静かな生誕であり、華々しい戦地も用意されず、
 十字架を背負わされたキリストのように壮絶な最期へ身を投じていくのである。


 次回は、「戦艦大和の最期・・・」



 4月1日、米軍は沖縄上陸、4月6日には、陸海軍航空特攻が行われていた。
 同日、「大和」は航空特攻に呼応する形で、沖縄突入作戦を下命される。

 第二艦隊司令長官:伊藤整一中将は、水上機で戦艦「大和」に飛来した
 連合艦隊参謀長:草鹿龍之介中将の作戦説明に対して、反対の意思を主張した。

 伊藤中将「成功の算なき作戦に、七千の部下を犬死させる訳にはいかない」

 草鹿中将「要するに一億特攻の魁となってもらいたいのだ」

 伊藤中将「作戦の成否はどうでもいい、死んでくれと言うのだな。」
       「それならば何をか言わんや、わかった」

 この後、伊藤司令長官は「我々は死に場所を得たり」と全将兵を結束させる。


       < 戦艦大和の最期 >

 4月7日朝、九州沖はどんよりと曇っていた。
 アメリカ索敵機は、その雲の切れ目より「大和」特攻艦隊を発見し報告、
 空母から「大和」へ向けて367機の攻撃隊が発艦する。

  1230~1250
 獅子に対し、無数のハチが針を刺そうとするかのように米軍急降下爆撃開始
 大和は後部と左舷に被雷するも27ノットのスピードで作戦通り、沖縄へ針路をとる。

  1258~1320
 さらなるハチの猛攻、獅子は高角砲24門、機銃150艇で反撃応戦し
 有賀艦長は、防空指揮所に仁王立ちとなり、対空戦の指揮を執る。
 しかし、このとき、左舷に連続被雷し、艦は大きく傾いていた。

  1330~1420
 後部福砲付近の火災と、左舷への多数の被雷により速力は低下・・・

 たちまち魚雷が命中して「大和」は舵機が故障して
 艦は左に大きく35度大傾斜、最後の瞬間はもう目前に迫っていた。

 
  ・・・このとき、艦内は狼狽なく、落ち着き払っていた。

  艦長が伝令に
 「総員上甲板」と静かな口調で伝え、期せずして
 「総員上甲板」のスピーカーの音が、艦内に響き渡る。
 「総員退艦せよ、特攻作戦中止」の意味をあらわす、「総員上甲板」。
 これは副長の意見具申があり、艦長が長官に決裁を求め、長官が同意したのだ。

 艦の傾斜は60度を越しただろうか、多くの乗員が甲板に出ている。

 伊藤長官は、艦橋下の長官室の鉄の扉をゆっくりしっかり閉めた、
 その扉は、二度と開くことはなかった。福岡県出身、享年55歳。

 艦長の有賀幸作大佐は、身を羅針盤に縛りつけ、海の男として
 「大和」と愛する日本の海に郷土を思いながら沈んでいった。

 傾斜角90度になろうとするとき、「大和」は赤腹を見せ始める。
 
 無数の左舷に受けた雷爆から、弾薬庫に誘爆
 そのとき、大閃光と共に、火柱が天高く舞い上がり、艦は真っ二つに折れ
 (高さ6千メートルといわれ、鹿児島から見えたといわれる)
 「大和」は最期のときを迎えていた。

 もしかしたら、「大和」は自分が積んだ弾薬で自分の腹を掻っ捌いたのかもしれない。

 昭和20年4月7日 1423 戦艦「大和」は徳之島西方25マイルの海底深く
 乗員3千数100の英霊と共に沈没し、悠久の眠りについたのであった。

 乗員3300余名中、生存者数は276名。

 艦と共に沈んだ、ある参謀長が退艦命令に従わない若き兵士たちに
 「まだ働かなければならないことがたくさんある。今死んで、どうする!」
 と叱咤していたとの乗組員の話が残っている。

 この頃、沖縄では航空特攻が随時行われ、本土は3月の東京大空襲はじめ
 民間人が多数、米軍の攻撃にさらされていた。

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。
  日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、
  真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。
  それ以外に、どうして日本は救われるか。
  今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。
  日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」
             『戦艦大和ノ最期』より著者 吉田満(大和乗組員)


 次回は、「大和」のその後と、乗組員。



 大和


        < 大和乗組員 >

 乗員3332名のうち3056名が「大和」と共に沈んだ・・・

 「大和」の最期の日までの彼らは、どんな様子だったのか?

 4月5日の朝、マイクで総員集合の予令。
 艦長は司令長官からの出撃命令を伝達すると、前甲板は、一瞬シーンと静まり返り
 その後、若い士官は飛び上がり喜び、抱き合う姿も見られた。

 純真無垢な気持ちで瞳を輝かせる者、多数。
 実戦に慣れているせいか、落ち着き払った面で命令を受け止めたようだ。

 夕食後は出撃の前途を祝う、分隊ごとの最後の壮行宴が開かれ
 艦長は、一巡する間に、杯に酒を注がれるまま飲み干しニコニコしており、
 しまいには艦長の胴上げまでされる騒ぎであった。

 そういう兵士を横にして、手紙を書く者、故郷の自慢話をする者
 受け持ち兵器の手入れに余念のない者と、いつもどおりの平素な姿であった。

 宴会は10時に終了、艦内は一気に出撃精神の空気に変化した
 12時から、「大和」へ重油の補給を開始している。

 翌6日、乗員の書いた最後の手紙は、午前10時に締め切られ
 午後2時には、短艇全部を送り出し、陸との連絡を完全に断った。
 (家族、愛する郷土との別れを済ませ、乗組員は沖縄行きを清清しく受け入れていた)

 戦闘に耐え得ない重病人、艦内に不案内な候補生の総員は退艦を命じられたが、
 なかなか候補生は命令を聞かず、同行を嘆願、なんとか納得させて退艦させている。
 (もちろん、このとき「大和」に乗ることは片道切符を手に入れることと認識している)

 午後5時、司令長官の訓示、君が代奉唱、皇居を拝し、各自故郷に向かい頭を垂れる。

 翌7日、「総員退艦命令」が出る、これは艦隊特攻を命ぜられ、軍令部命令「死」が
 当然であった状況で、これを覆す命令が当地で出されたのは非常に珍しい。
 
 4月7日 戦艦「大和」1423沈没。


  「 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし 」
                                 日本武尊詠歌



        < 戦艦大和を求めて >

 戦後何年か経ったあたりから乗組員生存者が中心となって、
 沈没位置の調査が始まり、1980年に、米国海軍省、海底油田調査の協力を得て、
 音波探知や磁気探知で「大和」らしきものを発見。(台風襲来で確認できず)

 1982年、鹿児島の西南西約300キロの地点で「戦艦大和探索会」が
 330mの海底の船影を確認。
 
 1985年、6月に辺見じゅん(『男たちの大和』著者)、阿川弘之らが
 「海の墓標委員会」を設立し、本格的な遺品引き上げに着手。
 
 1999年、タイタニック号引き揚げプロジェクトの探査船によって
 8月17日から10日間にわたり調査。
 高性能の照明機材を使って船体の細部を撮影し、
 乗組員の遺品や船体の一部を引き揚げる。調査には元乗組員や遺族も同行。

 現在、「大和」は海の中で眠り続け、乗組員の遺品の数々は、そのまま放置されている。


        < 戦艦大和の凄さ >

 大和は全長に比較して幅が異常に広い。これは、巨大な主砲を装備するため、
 防御や安定性を追求した結果である。主砲は揺れや傾斜角で精度も落ちるので、
 安定性を特に重視した。幅が広ければ、当然速度が遅くなる。
 したがって、造波抵抗を軽減し、速力を増すための球状艦首となっている。
 (宇宙戦艦ヤマトではかなり誇張された真ん丸い波動胞下部の箇所)

 昭和16年11月30日、5.2メートルの向かい風の中、
 28.33ノットの最高速を叩き出している。
 「大和」は実は、排水量に比較すると「小さい」戦艦であった。
 46センチ主砲を装備した上で、いかにコンパクトにするかで相当苦労したそうだ。
 艦内は冷暖房完備、エレベーター付で当時の技術の粋を集めた装備がなされ、
 居住区は広く、兵員の寝起きに大抵の軍艦がハンモックを使用していたところを
 大和では寝台を使用していた。
 居住区一人当たりの床面積は3.2平方メートルで、駆逐艦の3倍以上の広さである。
 したがって、他艦の乗組員からは「大和ホテル」と呼ばれていた。

 「大和」の全長263メートル、東京タワー特別展望台までが250メートル、
 京都タワーが131メートル、福岡タワーが234メートル、
 名古屋テレビ塔が180メートル、札幌テレビ塔が147.2メートルなどなど。
 (すいません、47都道府県の建物全部を載せられる知識がありませんでした)



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