一 夢 庵 風 流 日 記

2006/08/16(水)21:08

イスラム原理主義なるもの

亜細亜以外(20)

”イスラム原理主義、その背景” テロ事件が起こると必ず名前が挙がる「イスラム過激派」。 その思想とされるのが イスラム原理主義だ。 本来、原理主義とはイスラム教の開祖ムハンマドが神からの 啓示を書き留めた書物(コーラン)の教えを忠実に守ろうとする思想をいい、テロと は無関係である。 しかし、過激派のほとんどがこの思想を信奉していることから、 イスラム原理主義=イスラム過激派、テロと結び付けられてしまった。 1、イスラム原理主義のはじまり 1929年、場所はスエズ運河沿いの町、イスマイリヤの中学教師だったハサン・アル ・バンナは、イスラム法に基づくイスラム国家の建設と社会主義の実現を目指す組織 「ムスリス同胞団」を結成する。 当初、社会運動であったムスリス同胞団の活動は、アラブの復権という民衆の潜在的欲 求にマッチし、支持者を急速に拡大、1940年代にはイスラム世界連絡支部をダマス カス、クウェート、エルサレムに置くまでに成長、第二次大戦後にはメンバーは7万人 にも膨らんだ。 しかしその後、穏健派と急進派が対立、内部抗争から急進派は過激路 線に傾斜し、武装組織を結成、第一次中東戦争には義勇兵まで派遣するまでに至るのだ。 2、急進派の動き 武装組織はのちに4万人の青年行動隊に発展、指導者バンナ直属の秘密の特別機関を 創設。 この特別機関は政府要人や支配層をターゲットに活動を開始し、1948年、 ムスリム同胞団が非合法化されたのに反発し、当時のバシャ首相を暗殺する事件を引き 起こした。 急進派の行動はこれにより一時沈黙を余儀なくされるが、1970年、 サダト大統領がムスリム同胞団を非合法化ながらも黙認するようになると、再び活動 を再開。 合法主義路線に飽き足らなくなった世代が、より過激な組織を作っていく。 サダト大統領は、こうした原理主義テロ組織のひとつ「ジハード」によって1981年、 暗殺されるのであった。 3、穏健派の動き 穏健派の活動は慈善事業などに向けられ、ムスリム同胞団は数百万人規模の組織にまで 成長、いまやエジプト全土に4万を超える施設モスクを持つまでになっている。 4、世界的ネットワーク ムスリム同胞団はエジプト本国以外に海外支部を持つが、パレスチナ支部がイスラム過激 派「ハマス」に成長するなど、急進的な組織に変わったのも少なくはない。 その中核を 担っているのが1950年代~60年代に弾圧を受け、世界に散らばった急進派のメンバ ーである。 それを第一次とすれば、第二次はサダト大統領暗殺後に逮捕を逃れたメンバ ーで、サウジアラビア、アフガニスタンへと逃亡、今日のイスラム過激派ネットの源流と なった。 そうしたエジプト出身のテロリストの大物には世界貿易センタービル爆破事件、 マンハッタン四箇所同時爆破未遂事件に関与したオマル・アブドルラーマン(現在米国に て終身刑投獄)、ウサマ・ビンラディンと親交が深いアイマン・ザワヒリなどがいる。      ロシアの学校が爆破された事件がありましたね、逃げ惑う子供たち。 確かにチェチェンもロシアに虐殺・拷問されました。でもこの辺でもうやめましょうよ。復讐の連鎖は・・・。          一 夢 庵 風 流 日 記

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