一 夢 庵 風 流 日 記

2007/09/18(火)14:17

古都の旅の最終地

日本民俗・宗教哲学(145)

南北1300m、東西700mに及ぶ広大な敷地といえば・・・ 京都御苑 1331年、光厳天皇がここで即位し御所とした後、1392年の南北朝合一により 皇居と定まり、明治遷都までの約500年もの間、天皇はここに住まわれた 1947年、京都御苑は新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園として指定された では中に入ろう・・・ 堺町御門をくぐり、左へ向かうと厳島神社、拾翠亭がある 平清盛が母のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりであり、兵庫の 築島から、この地に移されたとされている、写真を見て?って思った人 そう、唐破風形の鳥居笠木なのよ、珍しいでしょ 五摂家のひとつ、九条家の遺構である「拾翠亭」はいまから200年ほど前 茶室として建てられた、一般公開は毎週金土曜・・・・・残念 藤原鎌足を祖とする九条家は明治時代も道隆が明治天皇の左大臣に、娘が 大正天皇の皇后になられている  さて、旧九条家をあとにして、その北にあるのが、「宗像神社」 こちらは藤原冬嗣が795年に宗像神(宗像大社)を勧請したのがはじまり ここには紫宸殿の左近の桜があったのだが、植え替えられたようだ 本殿にて参拝、宗像さんは交通の神、旅の無事を祈願した・・・ さあ、ここから「京都御所」を目指す・・・ 建礼門前大通りのど真ん中を歩き、建礼門へ向かう・・・ 広いから、ちょっと歩いたくらいでは近づかない・・・そこで これが京都御所正門、「建礼門」、特別な行事以外は開かない・・・ 慶次が来ているんだから開けろよ・・・ 京都御所の東門、「建春門」、それにしても広い広い広い 西門側に向かうと、清水谷家跡地に樹齢300年の「清水谷家の椋」がある ここで「蛤御門の変」の際、来島又兵衛が討死したといわれている 天明の大火の際に初めて門が開いたことから貝が火にあぶられ口開く様子 に喩え、蛤御門と名づけられたこの門において1864年に事件が起きた 前年の8月18日の政変により、薩摩会津連合により京都より追放されていた 長州藩、尊皇攘夷を第一とする積極派と慎重派が牽制しあっていたが、6月 の池田屋事件により、慎重派の高杉晋作、桂小五郎らを抑え、積極派が挙兵 久坂玄瑞や来島又兵衛らは薩摩会津藩らにより鎮圧され戦死した・・・ このときの激戦の様子を語るように、門には弾痕が残っている(写すの忘れた) 幕府は朝廷に発砲したという理由で、第一次長州征伐を開始することとなる 久坂は高杉と松下村塾の竜虎といわれた若き天才、残念なことに久坂玄瑞25歳 高杉晋作28歳、松下村塾生みの親、吉田松陰29歳、長州の、いや、未来の日本 の大黒柱は相次いで30に満たない年齢で亡くなっている・・・ そんな幕末の遺構を眺めながら、北へ歩く・・・ 宮内庁京都事務所、一条邸跡を抜け、五摂家のひとつ近衛家邸跡に向かう ここは春に来るべき場所だ、なぜなら枝垂れ桜の名所だから・・・ 池もあり、栄華がしのばれる・・・んなわけがない・・・蚊が多すぎ! 見上げると、太陽が真上を通過中のようだ、そろそろ帰るか ここからぐるっとまわって御苑内を歩けば京都迎賓館、大宮御所があるが、 どちらかというと国民公園の色が強いかなあ、ゲートボール場とかあるし だから 今出川御門側から出て帰ることに決めた、この日、早朝5時すぎより活動して いたし、眠くて眠くて仕方なかった~、あと暑さも強烈になってきたし 今度行くときは、御所などが一般公開されているときに行こうと思ふ すべてに「菊」がほどこされていた京都御苑よ、また会おう! それにしても疲れた、京都駅から京都御苑まで歩き、さらに御苑内を 歩き回り・・・さすがにバテましたな 古い記事だけど読む? 昭和天皇エピソード 昭和天皇エピソード2 今上天皇エピソード 今上天皇エピソード2       一 夢 庵 風 流 日 記       

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