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今回は「既存のゲーム理論でなされている仮定を現実の世界に持ち込めばどのようなことが起こるのか?」について、「最後通牒ゲーム」という有名なケーススタディと共に紹介したいと思います。
最後通牒ゲームとはどのようなものなのかを簡単に説明します。 ********************************* (1)10000円を2人で分け合うという状況を想定します。2人は別々の部屋にいて情報交換は出来ないし、相手が誰かもわかりません。2人のうち、一方が「提案者」となり、他方は「回答者」となります。どちらが「提案者」になるかはコイン投げをして決めます。 (2)「提案者」は10000円をどう分けるか、つまり相手の取り分をいくらにするかを1回だけ提案することが出来ます。提案する金額は1円単位で調整可能としておきます。 (3)「回答者」はその提案に対して「YES」か「NO」を答えます。「回答者」もこの規則と金額は知っています。回答が「YES」なら取引は成立し提案通りの金額を各自が受け取ることが出来ますが、「NO」なら10000円は没収され2人とも何も得られません。 ゲームは一回限りでやり直しが出来ない場合、あなたが「提案者」ならどう提案しますか? (上記の問題設定では、とりあえず分け合う金額を10000円としていますが、億万長者の人は、分け合う金額の桁を2つから4つくらい上げて同じ問題を考えてみてください。) ********************************* この問題に対する、既存の経済学者の答えは以下のとおりです。 *** 「提案者は相手の取り分を1円にして、自分は9999円を取りに行くべきである。」 なぜならば、お互いが自己の金銭的利益の最大化を目指すのだから、提案者は拒否されない限り、なるべく多くの金額を提案したほうが良い。金額を提示できるのは提案者であるあなたであり回答者にはその権利はないのだから、その気になれば1円という提案は可能である。 そして、ここが重要なのだが、自己の金銭的利益の最大化の観点から回答者は拒否は絶対にしないほうが良い。なぜならば、拒否すれば1円ももらえないのだから。したがって、提案者の金額がいくらであれ、もらえないよりはマシという理由で提案を受け入れる。 *** この答えに「すばらしい」と納得した人。あなたは立派な「経済学者」になれます。(でも、処世術としては最低だと思います。) この経済学者の意見の何が問題なのかを考えたいと思います。経済学が想定する「規範」ではなく、現実の人間がどう考えているのかを見てみたいと思います。 *** 1.回答者について もしあなたが、「10000円のうち1円しか貰えない」という提案をされるとどんな反応をするか? 拒否すれば1円も貰えないのだから、そういう意味では「貰えないよりはマシ」という反応も理解なくはないですが、大抵の場合(私もそうだ)、「相手は9999円なのに、何で私は1円なんだ。そんな不公平は許さん。」という反応をすると思います。「そんな不公平を受けるくらいなら、受け取らないほうがいい。だからお前も受け取るな。」という反応をする可能性は当然あります。 この反応は「経済学的合理性」からは逸脱しているのですが、それが人間の本質というものです。 2.提案者について 提案者についても、処世術などから、回答者に対するそうした反応をある程度は理解しています。そのような事情から提案者についてはいくつかの理由から「相手の取り分を1円にする」という提案を避けます。 (1)相互応報的動機 「相手が好意的ならこっちも好意的になるし、敵対的なら自分もそうなる」というものです。すなわち、「1円という金額を提案すると相手に嫌われるのは確実である」ということを恐れてそうでない可能性を追求するというものです。 (2)純粋な利他心 「正しいことをすることに喜びを感じること」です。ここでは「何が正しいのか?」という哲学的問題はありますが、経済学的合理性とは明らかに反する正しさもここに含まれているというのは疑う余地はないと思います。 (3)純粋ではない利他心 「与えることの喜びを感じること」です。例えば、「寄付」という行為を挙げられますが、経済学的合理性の観点からは「寄付」という行為はハッキリ言って有り得ない概念なのです。 (4)平等志向 「能力に特段の差がなければ金額は同じであるべきだ」という考えです。提案する権利は提案者にあるものの、この事情を考慮すると1円を提案するのは明らかに不公平であると現実の人間は考えるのでしょう。 *** この「最後通牒ゲーム」の実験は、世界中の様々な大学で実験が行われていますが、各国の文化的背景や実験サンプルによって異なるものの、「経済学的合理性を支持する結果は出ない。」となります。 すなわち、多くの提案者は1円という金額を提示することをためらいますし、回答者は金銭的合理性とは違う原因から拒否する可能性があるということです。 この「ゲーム理論批判」から、投資やビジネスについての教訓として何が言えるか? 「経済学的合理性を持つことは投資やビジネスで成功するためには不可欠な要素の一つかも知れないが、それが過度になりすぎると今後は社会的合理性を損なうために思わぬ損失を被る可能性がある。」というものです。 最近、「企業買収」とか「株主提案」が盛んに行われています。こうした「企業買収」や「株主提案」によって「株主利益を重視した経営がされる可能性がある」という意味ではいいことだと思いますし、日本にはこうした意識をもっと持たなければいけないのも事実ですが、米国流のドラスティックな「資本の論理」だけで物事を語るのはいかがなものかとも思います。 ライブドアとニッポン放送のことが思いつくのですが、私から見れば「双方に問題あり」となります。 まあ、最近ではそういう思惑も含めて「資産バリュー株」を買っている部分があるので、こんなことを言うのも何なのですが・・・。 よく「和を尊ぶ」とか言いますが、それはそれで悪くないのだと思います。「米国流の資本の論理」と「和を尊ぶ日本の文化的背景」がバランスよくなるのが理想だと個人的には思います。 今日の言葉: 「資本の論理を前面に出してはいけない。うまくいかない。その刀は持っているけれど抜かないのだ、というのがよい。」 (永守重信:日本電産の会長) P.S. ちなみに、私が「最後通牒ゲーム」における「提案者」となった場合、相手に提案する金額は、 (1)1円は有り得ないです。そんな事をするのは「合理的な愚か者」です。 (2)9999円も有り得ないです。そんな事をするのは億万長者になってからでいいと思います。 (3)現実的には4999円~5001円です。理想的なのは「相手にフェアであると思ってもらいながらも自分のほうが得をしているという状況を作ること」です。5001円の場合「損して得を取れ」ですし、4999円の場合「少しくらい抜いても良いよね」というものです。どう判断するかは状況次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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