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確か7月の終わり頃だったと思う。
後ろから2列目の窓側の席、そこは私のお気に入りの場所。 朝いつものように、塾へと向かうバスに揺られながらボーっとしていた。 いくつかバス停を過ぎ、私の隣には40代くらいの女性が座り、更に少し過ぎたところで、黄色いヘルメットをかぶった小学生たちが近くの席にちょこちょこと腰を下ろした。 ばちばちっ。 ふと気付くと、何やら音がする。虫が飛んで壁にぶつかるような音。あちこちにぶつかっているようだ。 その音はだんだん近付いてきて、私の足元を通り過ぎた。そして真横の通路の上で動きを止めた。 よく見ると…一匹の蝉。いつの間にか、バスの中へ迷い込んでしまったようだ。隣の女性も、まわりにいた小学生たちもみな、蝉を見つめた。 外に逃がしてあげたい…。 そう思ったが、隣に座っている人をわざわざ立たせるのも…。 私は、小学生たちが真っ先に蝉に手を伸ばすかと思っていた。いや、それを望んでいた。しかし、彼らはただ見ているだけ。 私が動こう。 そう思うより早く、隣の女性が蝉をそっと捕まえ、優しく両手で包み込んだ。そして、前の席に座っていた小学生に話しかけ、彼のちっちゃな掌に蝉を預けた。 彼女が何を話しかけていたのかは聞き取れなかったが、私はすごくほっとした。蝉が外に出れる…。 その女性は彼に、「外に出してあげましょう」といいながら窓の方を見た。そこで、私は上の方の窓を開け、小学生は窓の外で手をぱっと広げた。 走っているバスの窓から放たれた蝉は無事だっただろうか。上手く飛び立って、どこかの木に止まったかもしれない。あるいは、いきなり激しい風の中に放り出され、車にぶつかって命を落としてしまったかもしれない。 蝉の命も気になったが、それよりも、私は隣の席に座っていた女性の方が、非常に強く印象に残った。 こうして書いたものを読むと、蝉が床の上に止まり、そして女性が手を差し伸べるまでにかなりの時間があったように思えるかもしれないが、実際はほんの一分間かそこらの間の出来事である。私たちの後ろには、高校生や中高年のサラリーマンが座っていた。おそらくその人たちも蝉を見ていただろう。でも、誰よりも真っ先に、優しく蝉を助けたのはその女性だった。 彼女はただ蝉を手で包みそのまま外にだしたのではなく、小学生にそっと手渡しした。その動作は非常に感慨深かった。ほほえましく感じた光景でもあった。誰よりも一番に手を伸ばしたのが小学生ではなかったことは、私には少し淋しく思えたけれど。 一匹の蝉が起こした小さなハプニング。蝉にとっては不運だったかもしれない。 でも、私の心には、おそらくあの場にいた他の人たちにとってもそうであってほしいけれど、ふと忘れていた何かを呼び覚ましてくれたような、そんな一場面として今も鮮やかに残っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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