No3 前田 日明やっと日本人の登場です。私が猪木さんの次に、信者になった人です。 発言がアングルを超えた位置にある人でした。 こういう発言をできるレスラー、いなくなってしまいました。 82年か3年にヨーロッパから凱旋してきたとき、かっこよかった。 83年11月3日の新日対維新軍、4対4綱引きマッチの長州戦、当時の私の心をとらえました。 まさに若きエース。 藤波なんかよりよっぽど注目したものです。 しかし旧UWF設立と同時に、移籍してしまい、当時の内情を詳しく知らなかった私は、維新軍ともども裏切り者のレッテルを貼りました。 旧U時代も前田氏は新日、藤波や猪木さんに噛み付きまくりで、いずれやってやってくれと思っていました。 何が格闘プロレスだと。 猪木さんのほうが強いんだと。(当時は純粋なファン。) そんなおり、旧Uは崩壊、85年12月6日の両国のリングに登場、胸が熱くなったものです。 86年2月6日、藤原戦。 これも正座してみたなあ。 この後の、リング上の混乱劇、すべての現況は前田氏の猪木さんへのハイキック。 こんなことする日本人いなかったから、ヒート買ったよ。 今見ても、アングル超えてるよ。 試合中のあのゴンタ顔といい。 86年3月26日、東京体育館、一度は猪木-前田戦カード発表されたんです。 もうやってしまうのか、と思いました。 しかし、ご存知のようにカードが覆りました。 そのときの裏は、猪木さんの自伝に載っていたと思うので参照ください。(または新間本。) この3.26あたりから、前田氏に興味がでだしたのだと思います。 次の5月の両国での5対5、勝ち抜き戦では、藤波が負けて喜んでいました。 前田氏が一番輝いていたのは、皮肉にも新日時代なのです。 その後の、アンドレ戦、上田戦、ブロディー戦(期待していたが実現せず。)、その代替カードの坂口戦、ニールセン戦、長州顔面蹴撃事件へ、解雇されたときはそれはショックでしたよ。 その後88年5月12日につながります。(新生U旗揚げ。) それでもどういうわけか、私は89年の1月10日がUの初観戦でした。 88年の夏、は合宿免許に入っていたから、8.19も行けなかったんですねえ。 88年8月8日の猪木ー藤波戦も、合宿所のテレビ観戦だったし。 あの当時はプロレスファンが、うまいことターザンにのせられましたね。 U初観戦からは首都圏興行はすべて行きました。 密航という言葉に乗せられて、愛知県体育館まで一般道で走ったこともあります。 Uの戦略にもはめられ、横浜アリーナのチケット取るために、後楽園に寝泊りしたり。 90年にUが解散したときも悲しかった。 このちょっと前にファンクラブ入って、すぐ解散。 リングス旗揚げ。 このときは前田信者、しかもたった一人の旗揚げということで、当然こころはバックアップ。 旗揚げ前の、後楽園の公開スパーリングから行きましたよ。 旗揚げの横浜アリーナも。 92年位まではリングス結構行きました。 その後、膝怪我したり、負けだすようになったり、プロレスの批判をえらいするようになって(今は愛すればこそというのがわかる。)少し冷めてきたのかな。 そんなおり、次に私の心に引っかかってきたのが、素晴らしいコンセプトを掲げてくれた、伝説の団体Uインター、高田延彦です。 前田 日明にはかなり入れ込みました。 |