2010/01/17(日)17:03
1月17日 5時46分 今朝も居間であの時の事を振り返りました
平成7年(1995年)1月17日 5時46分 阪神淡路大地震で食堂のテ-ブルにしがみついた。あれから15年、何時もよりか遅かったが5時46分に余裕のある時間に寝床を離れて1階の居間食堂に降り立ち、あの時と同じように食堂のテ-ブルからテレビを見ながら、地震の時間を待ちました。5時46分には 居間でテレビに合わせて黙祷を捧げました。この15年間は社会的にも個人的にも大変な激動期で感慨無量であります。
私事で言えば
1. この年の4月; 胃潰瘍を療養中その1部が癌であることが判明して内視鏡手術後、
5月18日、胃を2/3切除する手術に踏み切りました。
2. 病院が神戸市長田区にあって、1月17日に地震後三田市からこの長田区の病院に
検査の為通う際、地震の被害を眺めながら月日を過ごしました。3. 今日、手術後15年と言う事で5年生存のデ-タに貢献できる事を喜んでおりますが
手術前の体重が77ッから減少して、最小の時は57kg、必死の頑張りでいまは63kg
を保っております。体脂肪は19%から10%前後に減少。4. 癌の告知について
偶然、会社の健診で癌を発見したので家族より誰よりも先に本人が先生から癌宣告
を受けた事が何よりも良かったと常にそのことを喜んでおります。
いまも癌の告知は増えつつありますが、常に難しい事にはちがいありません。5. この平成7年(1995年)は1935年(昭和10年)に誕生してからちょうど60年で、一般
的な 表現で言えばこの年を持って長年勤務した会社を離れる事になった年でもあり
ます。6. いまの方々には信じて頂けないでしょうが、我々の時代は定年が55歳が普通で、
その当時の数年前に56歳定年へ1年延長された時代でもありました。7. 1998年は娘が結婚、また、長年の念願であったハワイのフルマラソンに挑戦し、
あの小錦さんがスタ-タ-で走り、完走できた年でもありました。63歳
フルマラソンは全部で9回か10回走り、9回(8回)完走出来ました。元へ戻って、平成7年(1995年)1月17日 5時46分私は何時も朝食は自分で整え、一人テレビを眺めながら早朝の一時を食堂で過ごすのが数十年の日課でしたから、いつも通り4時台に起床、新聞を取り込んでテ-ブルに広げ、一方ではテレビを眺めながら食物を胃に送る作業に邁進しておりましたら、あの激震!思わず箸を投げ捨ててテ-ブルの端に両手を持って行きしがみ付いたことを覚えております。
4,5m先のテレビをセットしておある戸棚には、シンガポ-ルのマ-ライオンなどが飾られておりましたが、それが雨だれの如く落下、瞬間停電で真っ暗。
そのゆれた瞬間2階のそれぞれの部屋で寝ていた家内や子供達からと思しき悲鳴ともつかぬ声が聞こえてきましたが、自分自身がひょっとしたらその後の揺れで家が潰れると一巻のお仕舞いかなとの思いでその悲鳴を聞いているだけが精一杯でしたね。最も。それから15年、あの時の悲鳴について言及しても誰もそんな声を出した覚えは無いと言い張るので、いまだに? のままです。三田から大阪の駅前第二ビルへ通勤できたのは19日、福知山へ逆行してから京都へ出て、京都から大阪へ行くことができました。
リュックサックには宿泊の衣類、道具などをつめて向かった事でした。会社の先輩、同僚が神戸市東灘区にお住まいで、何人も亡くなり、我々もつらい思いを致しました。昭和21年の南海大地震や昭和60年ごろ千葉県で発生した大地震で地下鉄に閉じ込められて1,2時間御徒町駅を目前にしながら恐怖に耐えていた体験がありましたが、この阪神淡路大震災は、自宅の被害は軽微でありましたが、いろいろな方の見舞いを兼ねて三ノ宮から芦屋まで歩きで数回通いましたので、何時までも忘れる事の出来ない地震です。中国縦貫道の下を断層が走っているなど、厳しい条件下にあることも知れてきて、阪神淡路大震災が過ぎたから等分の間大丈夫などと暢気な事は言えませんね。
東南海大地震もいつか分らず、虞が増すばかりです。
1月17日の朝日 07:16分
これからもこんな穏やかな朝日を拝める事を祈っております。