三田のいのしし 見て歩き日記

2011/02/21(月)17:06

三田藩36,000石 九鬼家の菩提寺【心月院】に学ぶ

月 日 平成23年2月2日(水)場 所 三田市西山企 画 三田市高齢者大学院 郷土史コ-ス 学生による自主企画講 師 曹洞宗心月院ご住職 郷土史ガイドさん★ はじめに:2月2日、同じ西山にある熊野神社を訪ねて狛犬と拝殿の【象鼻】或いは【獏鼻】を撮影してから今日まで天満神社、御霊神社、大歳神社の建築様式にとりつかれた感じで、検索したり、写真を整理したりをしてきました。その辺の事の一部をブログにも載せました。まるですごろくの上がりを求めてサイコロを振り続けている感じでして、神社や仏寺の建築様式のすごさ面白さにひかれ続けているありまさです。【象鼻、獏鼻】 →【木鼻】 → 【蟇股】 →【斗(ます)】 → 【斗? 柱上斗?出組】 → ★ 原点(2月2日)に返って心月院について考えました。2月2日(水)午後は、高齢者大学院の郷土史コ-スの合同研修会が「心月院」が主たる会合でありました。 資料によりますと、心月院は、江戸時代から大名九鬼家の菩提寺でした。そこでこの日は、第九代から二三代までのお殿様とそのご家族が眠る墓地の散策、あるいは禅宗「曹洞宗」の寺院としてのたたずまいなどについて、ご住職からのご説明とガイドさんから貴重な話を聞くことが出来ました。 ★ どうも禅宗のお寺は真言宗、浄土真宗などのお寺とことなり、本堂の内外は  比較的シンプルな構造に見えました。  心月院総門を入る学生  同じ三田市永沢寺(えいたくじ)にある禅宗のお寺永沢寺(ようたくじと読む)も大きい   がやはり同じ傾向にあると思います。   あの有名な「達磨大師」が悟りを開く場所として面壁八年・・・と表現されるのも、  そこには仏像などが感じられません。質素あるいは簡素な様式が禅寺の本流でしょう  か。  ご住職のご案内で本堂内のお宝と庭のご説明を受けました。     仏像などあまりみられませんね  本堂のご案内もそここそこに奥にある九鬼家歴代のお位牌や所蔵の宝物のご説明   などが沢山ありました。  先日ご紹介させていただきましたHP【斗?・蟇股・木鼻のお話】によりますと、  神社仏閣などの建築様式には、【和様式】、【大仏様式】、【禅宗様式】、【折衷  様式】などがあるとご説明されております。   後日、心月院を訪問して,このHPに示されておりますように心月院は、曹洞宗  に属する禅寺ですから、どんな仕組みがあるか、また、斗?、蟇股、木鼻などに  ついても素人なりに鑑賞してみたい心境でおります。★ 九鬼家歴代のお殿様のお墓について  第9代殿様のお墓     資料によりますと熊野の海賊(水軍の意)だった九鬼家は織田信長公から     資料によりますと熊野の海賊(水軍の意)だった九鬼家は織田信長公から    豊臣家に至る水軍として活躍の後、徳川幕府につかえて、三代将軍家光公    の御世にこの三田市などへ移封された経緯があります。          九鬼家としては、第9代からが三田領における当主だそうだ。     この心月院では、当主とそのご家族の埋葬慕域が異なります。      次の写真がそのご家族方の墓域です   ★ 九鬼家御一族の墓所  かなり離れた一角です。      写真の写し方を誤り、九鬼家のご家族方の墓地に関して、ご理解ねがえないとおもいますが、こうしてそれぞれの奥方やお子様方のお墓がきれいに並んでおりました。その中には、かなりとびぬけた大きなサイズの、しかもその様式が堂々?としたお墓があり、注目を集めました。結構激しく想像を掻き立てられましたが、ガイドさんもその経緯はご存じありませんでした。当世風にいえばご実家が裕福であり、かつそのご両親が余所へ嫁いだ娘さん(御姫様)の死を悲しみ、手厚く葬ったかもしれない・・・と余計な話ですが。ガイドさんのお話によりますと、大名家の墓地でも、こんなに整然とお墓が整っているのは珍しくて、専門学者などの見学調査もおあるらしい。  

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