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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:思索
この連休の間に2本のドキュメンタリーを見た。
そのうちのひとつはサリン事件から10年とかいうやつで、被告たちの証言に基づいてサリン事件をアニメ化したものだ。 アニメ化だなんて随分とふざけた趣向だと思ったが、制作者の意図は何なのかと思って見つづけた。 サリンを撒きにいく信者たちは、心のどこかで無差別殺人を悪だと知りつつも、「教義としては間違っていない」とか、「自分がやらなくても誰かがやることになる。」とか「これは自分のカルマだから、それを引き受けよう。」などと自分を納得させて凶行にいたる。 どうして断らなかったのか? やはり断ったら、自分の立場あるいは命までが危ないのは目に見えていた。 どうして逃げなかったのか? 出家した彼らに帰るところは他になかった。そして逃げることは自分自身を否定することでもあった。 そして番組最後に語られたのは、彼らは私たちの社会が生み出したということだった。我々と彼らの間にどれほどの違いがあったのかということだった。 名だたる大企業が、放置しておけば事故になることを知りながら欠陥を隠蔽する。現場の人たちはどうだったのか?悪いことと知りながら、異議を挟むことができなかったのか?内心ではそれが会社のため、家族のため、自分のためと納得させていたのではないだろうか? たとえ上司の指示がおかしいと思っても、影で愚痴を言うだけで、面と向っては何も言わず「はいはい」言っている。それが仕事と割り切っている。それが悪いことだと知りながらでも。 そうした心理構造がサリン事件を犯したオウム信者と通じるものがないだろうか? 組織の中で生きる個人。組織の中で異議を唱えられないとしたら、それこそカルト的と言えないだろうか? 僕はなるほどなと思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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