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カテゴリ:思索
ある番組で靖国参拝問題について討論していたのだけれど、そこでわかったことは、いわゆるA級戦犯に対する取り扱いが外交面と内政面では乖離しているということだ。
この二重規範ともいえる状況は、対外的には東京裁判を受け入れることで国際社会への復帰を果たす一方で、内政的には後年になって戦犯の名誉回復が盛んに行われたことに由来する。 東京裁判の是非は別として、いわばこの本音と建前的なところが、アジア諸国の不審を買い、痛くもない腹を探られるということにつながっているように思う。 とても日本人的なやり方だと思うのだけれど、それが仇となっていることを自覚した方がよいように思う。 「靖国参拝についてとやかく言うのは内政干渉だ」という声もあったが、内政面と外交面では対応が違いすぎるのだから、被害者であるアジア諸国からの批判があがるのは当然だろう。一方では反省しているといいながらも、戦争当事者たちを奉った社を参拝するのだから、「日本人は心の中では反省していない」と思われても仕方がないだろう。 この状況をクリアするには、外交面と内政面の論理を一致させなければならないのだが、そのためには東京裁判という矛盾を解決しなければならない。 極東における戦争犯罪を裁くと言いながら、敗戦国である日本が一方的に犯罪者として裁かれるということ自体が不当だったのだ。 「犯罪だというなら、アメリカによる空襲や原爆で無惨にも焼き殺された人々についてはどうなるのか?これが犯罪ではなく何が犯罪と言えるのか?」 そうした問題が必ず出てくることになる。 だから本当にこの問題を解決したいと思うならば、アジア諸国と向き合うのではなくアメリカを強く追求しなければならないし、東京裁判の不当性と戦犯の名誉回復を今更ながら国際社会において主張しなければならない。 ちょっと実現できそうもない話しだ。 しかも難題はそれだけではない。 もしそんな主張が通って東京裁判が撤回されでもしたら、もう一度戦争責任ついて総括する必要が出てくる。 東京裁判の不当性について文句を言っているうちはいいが、戦争責任について問い直すとなると、今度は我が身に火の粉が降りかかることになる。 何より天皇の戦争責任と天皇制の意義が問い直されることになる。 果たして天皇を被告席に座らせることができるのか? そもそもそこから天皇を守るために戦犯たちは詰め腹を切ることになったのではないのか。 政府としては、それは非常にやっかいな問題になるだろうし、どちらにしても利益はなさそうだから、あえてはっきりさせないほうがいいってことになったんじゃないだろうか? う~ん、日本人的だなぁ。腹芸の世界だ… まっ、とりあえずは、こうした矛盾を抱えたまま60年も経ってしまったのだと理解しておこう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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