「反哲学」のすすめ
爆問学問という番組で木田元という哲学者の話がとてもおもしろく、わかりやすかった。ハイデッガーの研究者として日本哲学界でも高名な人なのだが、近年になって自ら極めた哲学を根底から覆すと宣言し衝撃を与えている。その番組をきっかけに「反哲学入門」を読んでみた。かいつまんでいうと、哲学というのは西洋における、ある種倒錯した(?)思考習慣だというのだ。というのも、自然は「自ずと生成し、変化し、消滅する」ものと考えるのは日本人にとっては普通のことだ。けれど西洋世界では、我々の知覚するこの世界の背後には永遠普遍の原理があると考えるのだという。どうもそうしたことを最初に言い出したのはプラトンらしい。ソクラテス以前の哲学者たち、パルメニデスやヘラクレトスなんかは日本人と同じように、すべては生々流転するのだと考えていた。しかしプラトンは生成消滅を超えた永遠普遍の「イデア」なんてものを持ち出して、この世界を超越した原理を設定したのだった。弟子であるアリストテレスは修正はしつつも「純粋形相」という形でそれを引き継ぎ、そしてなんとそれらはキリスト教と結びついて、超越的原理の同じ役割を「神」が果たすことになったのだった。もし、そうした超自然的原理を前提にしたらどうなるのか?自然は自ずと生成するようなものではなく、超自然的な原理によってどうにでも形作ることのできる単なる無機的な材料へと成り下がるのである。こうして物質的な自然観というものが、超自然的な思考様式とはっきり連動して生み出されることになった。そして自然を単なる製作の材料だと考えることで、技術文明がこれほど発達することになったのだった。そして超越的な原理によって創造された人間は、いわばその神的な原理の代理人として自然を支配する主人公として好き勝手に振舞ってきた。「近代のヒューマニズムなんて体裁のいいことを言いますがね。そういう意味では、あれは結局人間中心主義ですよ。」(木田氏)そうした西洋文化のあり方を批判したのがニーチェだった。「神は死んだ」という宣言は、キリスト教の神だけを想定しているのでなく、超自然的な原理に対して投げかけたものだった。超自然的な原理を取り除いて、覆い隠されてきた生きた自然というものをニーチェは取り戻そうとした。「善悪の彼岸」にしても、超自然的な原理を設定することで善悪の概念ができたのだが、そのもとでは生命的なものは悪とされ、超自然的なものは善の系列であるとされてきた。けれどそれをひっくり返して、生命の秩序のようなものを再評価しようというのがニーチェの狙いだったのである。ニーチェにしても、ハイデッガーにしても、生きた自然を復権し西洋の文化形成の方向性をシフトしようという、ある種の文化革命を企ていたのだ。木田氏は、哲学というのは西洋人自身が解体撤去しようと考えるような有害な思考様式であって、それを日本人が理解できなくても当然なのだと言う。たくさんの謎が解けて感心しきり。眼からウロコがたくさん落ちました。ばらばらだった話しがひとつにつながりかけていて、おもしろい。反哲学入門