謝罪⑦
自分がやるべきことは謝ることだったのだと、射る(放つ)べきものは的を射る為の矢ではなく言葉。謝罪の言葉(言+射⇒謝)だったのだと、ようやく「近づいてる」の意味もわかりました。悪いことをしたら謝る。基本のキが出来ていませんでした。自覚がないと謝ることも出来ない。自覚するとは本当に大変なことなのだと、少なくとも自分にとってはそうだったと、今更ながら思います。そして、二番目の子は身代わりになったんだろうな…と思いはしていたものの、愛知(一の宮)→高山(さるぼぼ)→富山高山は愛知から富山への中継点ということから、まさに自分の代わりになってくれていたのだと遅すぎますがようやく気づきました。子供らしい子供。生まれるべき時に生まれ、子供の時は子供らしくあり、巣立つべき時に巣立つ。自分よりも人の幸せを思い、自ら志願して身代わりとなり落ちていく(湖へ沈んでいく) 優しくて強い子供。私はそういう人達を閉じ込めたのだと思います。カルマでいっぱいの汚い肥溜めの中に。閉じ込めてその上に我が物顔でふてぶてしく鎮座。THE 自分さえ良ければ。鍵は閉じるのも開けるのも同じ一つのものですから私が反省して開放するしかなかったのだと思います。自分がトイレ清掃の仕事をすることになったのも決して偶然ではなかったのだと今は思います。(人のケツ拭いてるようで自分のケツ拭いてるように感じられたのも然りです。)イエスの後継者→卑弥呼 の器は、神の称号を狙う者によってすり替えられたという話にも通じてくる。(ずっと気になっていた左腿の四国のような形の白い痣の謎がこんなかたちで解けるとは思っていなかった。)ストーカー(黒龍)のように追いかけ、取り憑き、提供される食事(記事)を餓鬼の如く貪り続け、虎視眈々とその時を待ち、一旗あげようと無意識の悪はしていたのだと思います…。(「来るぞ来るぞ」「何がだ?」の意味もわかった気がします。)私は自分の底辺(浅いと思います)を見ることが出来ていませんでした。底辺まで行き着かなければ、極めなければ転じない。それが出来ていなかったが為に延々と同じこと(中途半端なこと)を繰り返していたと思います。長きに渡り、根気よく自ら気づかせよう気づかせよう反省に導こう導こう としてくださり、(それが出来ると信じて待ってくださり)本当にありがとうございました。もう会わせる顔もありませんが…。(2009年からの約十年は、多くのスピリチュアル系のブログを読んだり、スピリチュアルを生業とする方々に会ったりしました。(天使業界の人も多かった)最終的に この人が一番だと目をつけられて、(この人に成仏を手助けしてもらおうと。悪側は この人の上に行ってやろうと?)本当に大変だったと思います。)一昨日、ふとハープの音を聴きたくなりYouTubeで検索して聴きました。同じ弦楽器でも 前はバイオリンだったのが(11/1朝に夢うつつの中で聴こえた)ハープに変わりました。(バイオリンの前はギター(ロック)だったかも…。「もしもの世界はうるさい」?)そして、「自分を大きく見せようとしているうちは聞く耳を持てないうちは本当に聞きたいことは聞けない」という言葉も思い出しました。聞く耳を持つ努力は私にとっては簡単なものではありませんが、やらないといけないんだとは思っています。ここまで読んでくださった方ありがとうございました。そして、申し訳ありませんでした。