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今日の産経新聞の社説に「電通の過労自殺」という社説が掲載されていた。マスメディアで報道されている以上の細かい状況はわからないし、いろいろな意見があると思うが、何か問題の核心から逃げている気がする。
亡くなった電通社員は本当に大変な思いをして仕事をし、精神的にも肉体的にも追い詰められていたことは間違いなさそうだし、このようなことはこれで最後にしてほしいと思わざるを得ない。また、彼女の母親の「労災認定されても娘は戻ってこない」という言葉は重い。あまりに重すぎる。この一言に今回の問題は集約されていると思うが、それでもなおかついくつかの疑問がある。まず、社説の最後は「今回の問題は長時間労働が広がっている産業界全体への警鐘である」という表現でまとめられていたが、”お前が言うな”の典型だろう。新聞記者の長時間労働ぶりは、おそらく古今東西ナンバーワンではないだろうか。 私が某全国紙で新聞記者をしていた時は、朝8時に家を出て、担当している最寄りの警察を回り、夕刊向けの記事を書き、午後は街ネタを取材して4時ごろ支局に行き、朝刊向けの記事をいくつか書き、ゲラを読んで記事の校正が終わって、また警察署に行ってネタを探し、帰宅するのは12時ごろという生活だった。今考えてもどこまでが正規の就業時間で、どこからが残業時間なのかよくわからないが、長時間労働であることには変わりない。1日8時間を基準に考えると、当時は毎日15時間くらい拘束されていたわけだから、休憩を2時間くらいとったとしても毎日5時間、月に直すと100時間くらい残業をしている計算になる。実際、先輩社員たちは例外なく、その支局に勤務している間に一度は健康を損ねて入院していた。私が新聞記者をやっていたのはもう20年以上前の話だが、勤務実態がそんなに変化したとは思えない。新聞の社説は百歩譲っても長時間労働を論じる資格はないと思う。 そして、誤解を恐れず、今回の電通社員のこととは直接関係ない個人的な意見として私見を述べるならば、残業時間の多い少ないだけで過労死、または過労自殺につながると考えるのはいささか短絡的ではないかと思う。おそらく、世のヤリ手と言われる人たちは365日、24時間働いていると思う。もちろん、睡眠もとらず、食事もせずにという意味ではない。常に仕事のことを考え、常に仕事のことを優先しているだろうという意味だ。経営者でも、サラリーマンでも同じで、著しい成果を上げている人は残業100時間どころではないと思う。それでも彼らが過労死したり、過労自殺したりという話はほとんど聞かない。この違いは何か。いうまでもなく、仕事の中身と、本人の取り組む姿勢の違いだろう。 入社して数年の社員は、自分のやっていることが会社全体の中でどのような意味を持っているのかまではほとんど理解していないだろう。大きな会社ほどその傾向は強い。それに対して、経営者やカリスマサラリーマンといわれるような人たちは自分で仕事を見つけ、自分で判断し、実行している。そこには残業を何時間したか、という判断は入り込む余地はない。すべて自分の判断だからだ。 電通社員の場合、体力的なつらさよりも、自分のしている仕事が評価されていない、自分が必要とされていないという精神的なつらさが大きかったのではないか。逆に言えば、理解のある上司、同僚の下で自らの判断を中心にして仕事に取り組めており、それがきちんと評価されていたのなら、同じ残業時間だったとしても、少なくとも自殺という最悪のケースは避けられたのではないかと思う。長時間労働にばかり言及している新聞の社説を見てそんな疑問を感じた。 付け加えると、新聞記者の先輩たちは皆、入院経験があったが、つらい、と言っている人は一人もいなかった。みな、自分なりの夢を持って生き生きと働いていた。新聞記者とはそんな仕事だと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月16日 00時38分01秒
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