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テーマ:ニュース(100833)
カテゴリ:外国人の権利
曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張
2月11日付の産経新聞コラムで、作家の曽野綾子さんが、日本の労働人口が減少している問題について触れ、移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきだ、と主張した。 「近隣国の若い女性たちに来てもらえばいい」と今後需要の増える介護について移民を受け入れる一方、「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない」とした上で、 もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。(産経新聞 2015/02/11付 7面) と住居の隔離とも取られかねない主張を展開している。 さらに、南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と締めくくっている。 --- 問題の記事は、紙の紙面のみに掲載されているらしく、産経新聞のホームページには出ていません。なので、私はこんな素ん晴らしい記事が出ていた、という話に、恥ずかしながら騒ぎが起こるまで気が付いていませんでした。 なお、検索するとコラムの全文を読むことは可能です。 正直なところを言えば、どうせあの産経新聞とあの曽野綾子の組み合わせなんだから、記事の内容は最初から予想がつき、かつ予想を裏切らない内容だな、というのが感想です。驚きも意外さもない、クズ新聞とクズ作家の組み合わせからはクズ記事しか生まれないという法則を再確認しただけの話です。 私自身は、移民の受け入れ問題に関しては、積極的に移民を拡大すべきではないけれど、日本に多くの外国人が流入している現状は動かしようがないし、その前提の上で今後のことを考えていくしかない、と考えています。まあ、消極的現状追認というところでしょうか。 だけど、こんな、「居住区だけは別」などという公然たる差別をしてまで移民受け入れを拡大などすべきではありません。 あえて南アフリカの例を引いて、引用記事のようなことを書いているのは、「アパルトヘイト時代のほうがよかった」と言っているのと同じです。これを差別主義と呼ばずして何と呼ぶのか。 ちなみに、「白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例」は、元々の記事によれば「白人やアジア人なら常識として夫婦と子ども二人くらいが住むはずの区画に20~30人が住みだした」ことが原因だそうです。 そもそも、曽野綾子が思っている「夫婦と子ども二人くらいが住む」という「常識」は、子どもが2人しかいない家族での常識であることは言うまでもありません。ほんの数十年前までは、日本だって子どもが5人も10人もいる家は珍しくなかったし、ヨーロッパだってそういう時代はありました。子どもの数が減り、1世帯の世帯員の数が減ってきたのは、簡単に言えば経済的に豊かになった結果です。南アフリカで黒人世帯の世帯員が多いとすれば、それは人種とか民族の問題ではなく、単に黒人の所得水準が白人より低いことが原因です。そうなったのは、白人が支配階層として黒人を抑圧していたからであり、つまり白人自身が、黒人に対してそういう生活風習を強いてきた結果だといっても過言ではないでしょう。 ちなみに、アパルトヘイトが撤廃された1991年当時、南アフリカの合計特殊出生率は3.53でしたが、2012年には2.41まで下がっています。だから、1世帯あたりの世帯員の数も、20年30年前よりは減ってきているんじゃないかと思います。(数字はこちらのサイトから引用) 日本においても、私の知る範囲内でいうと、来日外国人も短期の不法滞在者はともかく、永住者や長期滞在者になると、家族構成はどんどん日本人化するようです。日本より合計特殊出生率がずっと高い国からやってきた人であっても、日本に住むと出生率はどんどん下がる。 ところで、フランスにおいて、イスラム圏出身の移民だけが集まって住む地域の現状について、少し前に紹介したことがあります。 あまりに根の深い問題 これなど、まさしく曽野綾子が望みを実現したようなものですが、その結果はどうでしょうか。このような差別と貧困の蔓延が、イスラム過激派に人々がなびく温床になり、ひいてはシャルリー・エブド事件のようなテロを生み出しているといっても過言ではないように思われます。曽野綾子が言っていることは、これと同じ状況を日本でも作り出せといっているのに等しい。住むところだけ分けて、差別や貧困を一部の地域に押し込んでみたところで、人間は自由に移動できるのですから、問題の発生を一部の地域だけに押し込むことなんかできるわけがありません。 「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」という結論に至っては、失笑するしかありません。居住を一緒にできない(「一緒」といっても、同居という意味ではなく、近隣住民になるという意味なのに)のだとしたら、どうして事業や研究や運動が一緒にやれるのか。たとえば一緒に仕事をするとなったら、その接する時間は近隣住民同士よりはるかに長くなります。 その他、引用記事には言及されていませんが、原文には、介護の仕事について、「高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないということはまったくない」などということが書かれています。これもまた、唖然とする話。言葉が通じなくて、どうやって対人援助をやるのか、少なくとも「業」として賃金を得て行う仕事なのに、衛生上の知識なしで介護とかどうしてそういう理屈が成り立つのか。 結局のところ、極右オヤジ(曽野綾子は女性ではあるが、発想の本質がとてもオヤジ的に感じます)の床屋政談をそのまま活字にしました、というレベルに過ぎないわけです。保守論壇とかいうのは、こういうレベルで金が取れるんだから、オイシイ世界だなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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