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テーマ:政治について(20737)
カテゴリ:政治
自民党広報の「改憲漫画」で誤りを指摘する声相次ぐ
自民党広報のツイッターアカウントが、憲法改正の必要性を訴えた4コマ漫画をアップし、その内容に誤りを指摘する声とともに批判が相次いでいる。 問題となっているのは、「教えて!もやウィン」のタイトルで18日にアップされた4コマ漫画。登場するキャラクターが「ダーウィンの進化論ではこういわれておる」と、ダーウィンの“名言”とされるものを引き合いに出して憲法改正が必要だと説いている。 しかしこの内容に「ダーウィンはそのようなことは言っていません」「憲法とは全く無関係の進化論を持ってきて変化の必要性を訴えるのはこじつけに過ぎません。また進化論の理解も間違っています」「自民党のみなさんが進化論を理解していないことがよくわかりました。全世界に恥を広める前に、削除することをお勧めします」などといったコメントが多数寄せられた。 国民民主党の原口一博衆院議員もツイッターで「『適者生存』理論は、かつてファシストに利用されて民族浄化の惨禍をもたらした。そもそもダーウィンの説でもない」と指摘。「誤りに誤りを重ねて、それを憲法改正に結びつけようとするなど、どこまで劣化したのか?」と批判した。 --- 問題の自民党の4コマ漫画はこちらです。 教えて!もやウィン いやはや、改憲の必要性を叫ぶためにダーウィンを持ってくるとは、筋が悪すぎます。 引用記事にも指摘されていますが、 「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できる者である」というのは、ダーウィンのことばではありません。この言葉の起源は、 1960年代に米国の経営学者レオン・メギンソンがダーウィンの考えを独自に解釈して論文中に記した言葉であった。それを他者が引用を重ねるうち少しずつ変化して、最後にダーウィンの言葉として誤って伝えられるに至ったものである。 とのことです。 そもそも、上記の考え方は、生物進化のとらえ方として間違っているし、生物進化の考え方を人間社会の中での行動にあてはめることも正しいとは言い難いのです。 まず、「変化できる者」を、「進化する能力のある者」と捉えるなら、すべての生物がおおむね平等に進化(変化)する能力を有します。 「進化」とは、簡単に言えばコピー不良です。生物は親から子へ、遺伝子を受け継いでいきますが、その遺伝子に稀にコピーミスが発生します。一つ一つのコピーミスはごく小さなものですが、何千世代にわたって、小さなコピーミスが集積されると、はっきりと目に見える変異になっていくことがあります。 また、同じ集団の中では繁殖によって常時遺伝子がやり取りされているので、前述のようにコピーミスがあっても孫の代で片親からの正しい遺伝情報で補正されたり、補正されない場合は、やがてコピーミスは集団内のすべての個体に共有されるので、その集団全体が同じ方向に変化します。 しかし、「地理的隔離」つまり、何らかの理由で集団が二つに分かれて、その間の通婚が途絶えると、それぞれの集団が別々の方向にコピーミスを繰り返すので、両集団はやがて枝分かれ(種分化)していきます。 遺伝子がコピーミスを起こす確率は、遺伝情報をDNAによって受け継ぐ生物である限り、大差はありません。したがって変化(進化)する可能性(能力)も、どんな生物でも大きくは変わりません。ただし、寿命の長い生物より寿命の短い生物の方が一定期間内の世代の代替わり回数が多くなるので、当然変化のスピードも速い、ということにはなります。また、これはあくまでもDNAを持つ生物の話です。RNAはDNAより遺伝情報のコピーが圧倒的に不正確なので、RNAウイルスはけた違いに早い変異スピードになります。 「変化できる能力」は大差がないのに、何億年もさほど変化していない生物もあれば、数百万年でとんでもなく変化する生物もあります。それは、能力の問題ではなく環境の問題。環境が変わらなければ変化する必要はないし、環境が変わればそれに合わせて変化していく・・・・・とも限りません。変化は偶然の産物ですから、必ずしも環境の変化に合致するように変化すとは限りません。ただ、環境の変化に反する変化を遂げた生物は繁栄できない、あるいは絶滅する可能性が高く、環境の変化に合致する方向に変化したものは繁栄する可能性が高まりますから、結果として環境の変化に合わせて生物が進化したかのように見えるだけです。環境の変化とは生物自身の主体的な選択ではありませんし、生物自身の変化(進化)もそうです。 では、「変化できる者」を、進化する能力ではなく、「結果として変化(進化)した者」と捉えた場合はどうでしょうか。 これもまた、明らかに間違いです。「生きている化石」と言われ、何億年も姿を変えていないシーラカンスは今もしっかり生き残っています。というか、シーラカンスに限らず「魚」と総称される生物は、陸に上がった脊椎動物に比べれば、何億年間もそれほど姿を変えていませんが、現在も大繁栄しています。もちろん、個別に見れば、多くの種や多くの科が登場しては絶滅していきましたが。 一方、この間に陸に上がった脊椎動物は、水中に残った魚に比べて信じられないくらい大変化しましたが、絶滅した種類もまた数知れずです。恐竜が(鳥以外)絶滅したのは有名ですし、我々哺乳類の祖先である単弓類は、ペルム紀の終わりに、哺乳類に連なるわずかな系統を残して絶滅しました。 我々人類にしても、400万年前にアフリカにアウストラロピテクスが登場して以降、いくつもの種類の人が進化しましたが、現在生き延びているのは我々「ホモ・サピエンス」1種類だけです。 つまり、「変化した者」が生き残り、「変化しなかった者」が絶滅した、という一般法則もありません。 また、そもそも純然たる生物進化の法則を、人間社会内部での個々の行動にあてはめることには無理があります。 生物の変化(進化)は生物自身の主体的意志や判断によるものではありません。言い換えれば「偶然」です。進化とは偶然でしかないのです。 鳥は飛びたいと願ったから空を飛んだわけではないし、人は頭がよくなりたいと思ったから頭がよくなったのではありません(人類社会内部での個々の努力による優劣の話ではなく、生物種としての人類全体の能力の話てです)。元々一つの集団が、見分けるのも難しいような別の種類に分かれるだけだって、何千世代か何万世代かかるのです。四つ足の類人猿から人が枝分かれするには、数十万世代かかっているでしょう。1世代か、せいぜい数世代の中で、個人の意思であれ集団の意志であれ、何かの意志を持ったりそのために努力をすることは、生物としての進化とは関係ないのです。 このように、憲法を変える、変えないという話と、ダーウィンの進化論とは、何の関係もありません。ダーウィンの進化論は、生物学における極めて正しい学説ですが、それを人間社会の内部における社会構造の変化にあてはめようという考え方は、基本的には見当違いと言わざるを得ません。その中でも、「社会ダーウィニズム」と呼ばれる考え方は、ダーウィンの学説を曲解し、「弱肉強食」「優勝劣敗」といった恣意的な理論で強国による小国への侵略や植民地支配を正当化したり、ナチスの「優生思想」つまり「劣等民族」の虐殺や障害者、社会的弱者の抹殺につながるなど、猛毒を発揮しました。進化論を人間社会にあてはめようとする考えのすべてが社会ダーウィニズムというわけではありませんが、「変化できない者は絶滅」という発想は、かなり社会ダーウィニズムに近いと考えざるを得ません。 長々と書いたけど、私程度の「生物学が大好きな素人」程度で分かる生物学の素養もないままダーウィンの進化論のうわべの部分に誤った理解で飛びついちゃって、改憲につなげようという、実に浅はかで底の浅い行動、ということです。 ところで、このダーウィンの進化論に関する理解もトンデモだけど、続く第2話「憲法とは」もまたトンデモです。 「はじめの憲法」に、いわゆる聖徳太子(厩戸皇子)の十七条の憲法を持ってくる神経。これもまた唖然とします。それは名前が同じなだけで、近代憲法とは関係のない話です。いわば、「最初の戦車」と言って第1次大戦の英軍マーク1戦車ではなく、古代ローマの馬の曳く「戦車」を持ち出すようなものです。「馬鹿か?」という印象しかありません。 更に、「憲法の役割」には、「リーダーも国民もみんなが憲法に従う義務がある」と書いている。これまた、憲法に対する誤った理解と言わざるを得ません。 世界に殺人が非合法ではない国はないと思いますが、憲法に殺人は禁止します、などと書いている国もまたありません。憲法とは、国の形の基本を定める法律であり、また為政者を律するための法律であって、一般国民を縛ることを目的とする法律ではないのです。一般国民を縛ることは、憲法ではなく、その下の様々な法律によって行われます。まさに殺人は禁止なんてことは、刑法に書いてある。憲法に書くべきことではない。 憲法についてこんな書き方をするのは、自民党が作りたい新しい憲法には、国民を縛るような規定を一杯作って、それに国民を従わせたい、という考えが根本にあるからでしょう。 そんな憲法は御免こうむりたいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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