5348895 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

inti-solのブログ

inti-solのブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

日記/記事の投稿

コメント新着

inti-sol@ Re[1]:どうなるかなあ(04/16) New! nordhausenさん 東京15区では共産党はい…
nordhausen@ Re:どうなるかなあ(04/16) New! ただ、今回の補選ではいずれも共産党やれ…
inti-sol@ Re[1]:夜行日帰りで都内旅(04/14) あしなくまじさんへ あしなさん、ですよ…
あしなくまじ@ Re:夜行日帰りで都内旅(04/14)  私はイカロス出版の「にっぽん全国たの…
inti-sol@ Re[1]:日本保守党の機関紙になった夕刊フジ(04/10) アンドリュー・バルトフェルドさん 夕刊…

カテゴリ

2022.08.19
XML
テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:戦争と平和
「なにか変だ」銃を手に無言、ずぶ濡れの下半身、どす黒い顔…激戦の南太平洋で散った精鋭部隊の“戦争怪異譚”が伝えるもの
戦争の怪異譚が現代の私たちに伝えるのは、みじめで救いようのない死に追いやられた人たちの「死ぬに死にきれない」思い、そして、そうした悲惨な戦争は決してやってはいけないという無言の教えだろう。
1942年5月14日、旭川から陸軍第7師団歩兵第28連隊から抽出され、連隊長・一木清直大佐が率いる一木支隊約2000人が出発した。
一木支隊はミッドウェイ諸島攻略部隊だった。サイパン島で作戦発動を待ったが、ミッドウエー海戦は大敗北して一木支隊は8月6日帰還命令を受けて宇品に向けて出帆した。ところが――。 
1942年8月21日の旭川、第28連隊の兵舎は閑散としていた。一木支隊が出発したため一番奥の「第三線兵舎」に留守部隊がいるだけだったからだ。表門では衛兵勤務の兵長が立哨していた。
午前0時近く、兵長は編上靴で砂利道を踏みしめるザクザクというような部隊行進の音を聞いた。夜間演習に出た部隊があるとは聞いていなかったが、部隊が接近してくるのはどういうことだ。兵長はすぐ衛兵所に向かって「部隊接近! 衛兵整列!」と大声で怒鳴った。
旧日本軍は将校以上が指揮する部隊が営門を通過する場合は、衛兵が整列して送迎するなど、細かい決まりがあった。
兵長は目を疑った。一木大佐と支隊とともに戦地に行ったはずの軍旗が見えたからだ。兵長は「軍旗入門! 軍旗入門!」と怒鳴った。兵長は軍旗に「捧げ銃」の敬礼をし、軍旗の前後にいるはずの一木大佐に「表門、立哨服務中異常なし」と大声で申告した。
しかし、通例なら「ご苦労」などと答えて挙手の答礼があるはずが何もなかった。
軍旗は正門から中に入り、続く部隊は四列縦隊で行進していた。兵長は影絵を見ているような気がした。兵士は一様に無言。驚いたことに、小銃の先に着剣している。しかも、戦場を駆け巡った汚れた野戦の服装。腰から下はずぶぬれだった。
衛兵司令軍曹にとっても、何の前触れもなく部隊が軍旗とともに帰ってくるなど、長い軍隊生活でもなかったことだった。軍曹の目にも帰還兵士の姿は影絵のように見えた。しかも、連隊本部の兵舎を通過した途端パッと消えたようだった。
ほかの衛兵たちもキョトンとして無言。その1人の上等兵は、兵士のどの顔も能面のような無表情で、まるで生気がなく、どす黒いと感じた。誰も見覚えのある顔がなかった。
上等兵は「なにか変だ」と思った。衛兵司令の軍曹は懐中電灯を取り上げ、帰還部隊の後をつけるように第二線兵舎に向かった。兵士たちが一斉に玄関から、われもわれもといった具合で入って行ったので、懐中電灯を照らして兵舎の中に入った。
いま兵隊が先を争って入った兵舎なのに、話し声一つしない静けさ。兵士はどこにも一人もいなかった。軍曹はゾッとした。
幽霊部隊かもしれない。彼は直感した。
一木大佐率いる支隊先遣隊はこの日、8月21日、全滅していた。上陸したガダルカナル島でアメリカ軍の猛烈な集中砲火と戦車に蹂躙され、916人中777人が戦死するという惨澹たる敗北だった。
しかし、そのことは留守部隊にもすぐには知らされなかったうえ、報道管制で秘匿された。(以下略)

---

この話自体は初めて知りました。どこまで信ぴょう性のある話かは分かりません。というか、この種の超常現象の話に信憑性を求めても仕方がないかもしれませんが。この種の、全滅した部隊をめぐる怪異現象の話はいくつも例があり、一木支隊の話もその一つの例という以上のものではないのかもしれません。
ただ、ガダルカナル島での惨憺たる敗北と、とりわけその中でも「太平洋戦争における日本陸軍最初の敗北」である一木支隊の惨劇は有名です。彼らは、確かに化けて出ても仕方がないような悲惨な末路を遂げました。
引用記事にあるとおり、また以前に当ブログでもミッドウェイ海戦についての記事で紹介したことがありますが、一木支隊は元々ミッドウェイ島上陸用部隊として編成された部隊です。歩兵第28連隊の1個大隊(歩兵4個中隊・機関銃1個中隊、歩兵砲1個小隊)及び連隊砲、速射砲各1個中隊(おそらく速射砲4門、歩兵砲6門、重機関銃8丁)・通信隊・衛生隊1/3個という編成でした。
ミッドウェイ島では米軍約3000人以上と数十門の火砲、戦車が待ち構えていました。そこへ、数十隻の手漕ぎの折畳艇で環礁を渡って上陸しようというのですから、壊滅的打撃をこうむったであろうことは確実です。その悪夢は、ミッドウェイ海戦敗北による作戦中止でいったん回避されたかに見えたのですが、部隊はその直後にガダルカナル島奪回作戦に転用され、結局悪夢の戦場に送られます。

一木支隊が乗船していた2隻の輸送船「ぼすとん丸」と「大福丸」は、速力が9.5ノットという低速船でした。そのため部隊を半分に分けて、そのうちの第一梯団は30ノット以上を発揮する高速の駆逐艦に乗り換えてガダルカナル島に急行したのです。それが、一木大佐以下の916名です。
しかし、駆逐艦は高速ですが、輸送船ではありません。甲板上には艦橋、煙突、巨大な兵器が所狭しと並んでおり、しかも甲板の構造が弱くて、重量物を積むことができません。そのため、ただでさえ貧弱な上記の重火器のうち、ごく一部しか第一梯団は装備することができませんでした。一木支隊第一梯団の装備した小銃等以外の火力は、以下のようなものだったと言います。
歩兵砲2、重機関銃8、軽機関銃36、擲弾筒24(NHK取材班「ガダルカナル・学ばざる軍隊」角川文庫)
歩兵砲はおそらく92式歩兵砲あるいは41式山砲のいずれかであり、擲弾筒というのは手打ち式の簡易的迫撃砲である89式重擲弾筒です。

対する米軍は、兵力1万9千人の海兵1個師団です(一部は隣接するツラギ島に上陸し、ガダルカナルに上陸したのは約1万1千人)。装備は前述のNHK取材班による大雑把な推定(実際のガダルカナルの米軍の装備は資料を発見できなかったため、当時の海兵1個師団の標準的装備からの類推)では、榴弾砲約50、迫撃砲約90、重機関銃約350、軽機関銃約1500、擲弾筒約300など、一木支隊とは比較にもならない大火力でした。
しかし、当の一木大佐と部隊の兵士たちは、そのような認識をまったくもっていませんでした。

当初は日本側は、海軍の偵察機によって上陸部隊の輸送船の数を正確に捉えていたことから、上陸した米軍の兵力をほぼ正確に見積もっていました。しかし、その後よく分からない経緯によって根拠なく敵兵力の過小評価をはじめ、最終的には敵兵力は2000人という実態とかけ離れた推定になっていたのです。

一木支隊には、2000人という敵兵力見積もりしか伝えられていません。そして一木大佐は以前に陸軍歩兵学校の教官を務めており、陸軍のドクトリンである火力軽視、白兵戦至上主義の権化でした。そのため兵力不足や火力不足に何の不安も抱かず、それどころか、上級部隊に対して、隣のツラギ島についても、「ツラギもうちの部隊で取ってしまってよいか」と問い合わせたという、結果から見れば無惨としか言いようのないエピソードが残っています。

五味川純平「ガダルカナル」(文春文庫)は、この白兵戦至上主義を、辛辣にこう評しています。
「日本陸軍が白兵戦を重視したのは、膨大な重装備と火力重点主義には莫大な経費がかかるが、白兵主義は素材が人間であるから相対的に費用が安くすむからにほかならなかった。兵隊ははがき一枚でいくらでも集めることが出来る。粗衣粗食をあてがってきびしい軍律の中に拘束することが出来る。国のためにいくら殺してもかまわない。この人命軽視の戦法が長い間通用してきたのである。火力の貧弱を白兵の「威力」によって補う。それで事足りた相手と戦って戦勝を収めてきた歴史に、軍みずからが酔ってしまって、世界のどの敵に対しても白兵が勝利を保証する最も有効な日本軍独特の戦法であるかのような伝説を、みずからこしらえてしまったのである。」
五味川自身、1945年8月、ソ「満」国境」で、ソ連軍の戦車の大群を白兵で迎え撃った奇跡の生存者ですから、その言葉に恨みがこもっているのも当然です。

一木支隊第一梯団は1942年8月18日にガダルカナル上陸、後続の第二梯団の到着を待つこともせず、海岸沿いを米軍飛行場に向かって「行軍即捜索即戦闘」つまり遮二無二敵に向かって突撃をしていきました。その進撃路上では、米軍が濃密な火力で防御網を引いて待ちかまえていたのですが。
途中斥候(偵察部隊)を先発させたものの、圧倒的な米軍に補足されてたちどころに全滅、それでも本隊を率いる一木大佐は、危機感を抱かず、あるいは功を焦って引っ込みがつかず、前進を続けます。日本時間8月20日深夜、待ちかまえる米軍に対して一木支隊主力が突撃を開始しますが、結果は言うまでもありません。翌21日午前中には部隊はほぼ壊滅、最後は米軍戦車が出動して、日本軍の戦死者も負傷者もまとめて挽き潰していきました。速射砲(旧日本軍は対戦車砲をそう呼称した)を第二梯団に回した一木支隊は戦車に対抗できる装備はありませんでした。
引用記事の後編で、一木大佐の最後について、戦死説と自決説が紹介されていますが、五味川純平「ガダルカナル」は、より簡潔明快に、こう書いています。
「一木支隊長の最期を、生存者は誰も見ていない。軍旗の行方もわからない。」

引用記事にあるように、結末は916名中777名戦死、なのですが、この数字ですら過小評価とも言えます。というのは一木支隊916名のうち約100名は上陸点に警備のため残されており、戦闘には参加していないからです。従って、実質的には約800名余が戦闘に参加した中での777名戦死です。生存者のうち十数名は捕虜となりました。捕虜にならずに戦闘から生還した者はせいぜい30名程度でした。
しかも、まだガダルカナルの戦いは始まったばかりです。このあと、生存者には更なる戦いと飢餓地獄が待ち受けていました。

根拠のない敵兵力の下算と、敵を見下す姿勢、硬直化した時代遅れの火力軽視、白兵戦至上主義の空虚な精神論がこの事態を招いたと言えます。五味川純平「ガダルカナル」が引用する米公刊戦史によると一木支隊の無謀な攻撃について「驚くばかりの少数兵力で海兵隊を攻撃したことは、情報機関の欠陥か、然らずんば敵側の過大な自信を示したものである。もし一木大佐が8月20日までに彼が向かっている米軍兵数に気づいていたとするならば、彼は海兵隊の武勇に対してまったく軽蔑してかかっていたものにちがいない」と評しています。

わずか900名の小部隊とはいえ、これは、日本陸軍の宿痾の象徴であり、また陸軍にとっては太平洋戦争最初の敗戦、かつこのあと、百戦全敗を繰り返していく転機となった戦いです。
しかも、日本軍はこの惨敗によっても、ガダルカナル島をあきらめようとはしませんでした。

長くなるので記事を分けます。以下次回に続きます。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.11.03 21:31:01
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.