『犬の鼻先におなら』

2009/05/19(火)07:54

赤瀬川原平著『ぼくの昔の東京生活』を読んだ

φ(..;)来た見た書いた(470)

豊かになる前の日本。テクノロジーにワクワク感があった頃。輝ける左翼思想。  赤瀬川原平氏が青年時代、上京した頃の生活の細々とした記憶を記したエッセイ集です。大体1950年代の話が主。  「オート三輪」や「手動式パチンコ」といった今ではお目にかかれなくなった代物や、「高速道路」や「深夜喫茶」といった今では当たり前になった代物に初めて触れた体験などが記されています。    こういった記録は重要ですね。歴史学では当時ありふれた事の方が、反って判らなくなるという事がしばしば起こるようです。例えば、将軍の食事の仔細な記録は残っているのに、長屋の庶民の食事は記録に残っていなかったりするというような。  どれも、その物品の「手触り」とでも言うべき感覚が記されています。物品そのものの記録ではなく、その利用者の受け取った印象が記されているので、興味深く読みました。  気になった所のメモなど。  「メーデー」  メーデーや歌声運動といった50年代の左翼運動の話。当時は「左翼」がキラキラに輝いていたようです(「歌声運動」というのは左翼のメッセージソングを合唱する運動の事らしい)。  (p30)「ぼくは『思想』には人並みに騙されやすかったけど、絵描きなので感覚はもっていた。」  当時、アートの世界では「社会主義リアリズム」という方法論が流行していました。芸術を人民の共産主義的教育の手段の一つと見る方法論です。  しかしある時、赤瀬川氏はそれらがどうにも図式的に感じられたそうです。「その絵のもとにある『思想』というものにシラけてしまった」のだそうです。  途端、歌声運動が猛烈に恥ずかしくなってしまったそうな。  今でもカラオケは一切しないそうです。  (p30)「そのころまだ自分が学生なので『労働者』というものに憧れていた。仕事をしてお金をもらえば誰だって労働者なのに、あえて『労働者』に憧れるというのは、一種のブランド志向だと思う。」  「労働者」という言葉がカッコイイ一種の「ブランド」だった(へぇ)。  そういえば62年の浦山桐郎監督の映画『キューポラのある街』のラスト近く、鋳物職人のヒロインの父親と労働組合運動家が歓談するシークエンスがあります。ヒロインの父親が怪我をした際、労働組合運動家が工場側と交渉して彼の権利を守ったという話(うろ覚えだ)。  ここで労働運動家は鋳物職人のヒロインの父を「労働者」と呼ぶのです。すると(私には奇妙に感じられたのですが)、彼は大いに(何故か)照れ、「俺は職人だよ」といい、労働運動家は「いやいや、労働者だ」とおだてる(おだてた事になるのか)のでした。  そうか。当時「労働者」はカッコイイ言葉だったんだ。言葉の意味は辞書に載っていても、こういう“空気”は記録に残りませんね。  今だと完全に逆転していますね。  「オヤジさん、さすが職人って感じ」「馬鹿言え、俺はただの労働者だよ」ね、こっちの会話の方が自然でしょ。「あんたは職人じゃない。労働者だ」殴られます。  「職人」の仕事から来るプライドと充実感が社会的に“発見”されるには、“貧し”過ぎた時代でした(もっとも今だって「労働のオントロジー」に十分な注意が向けられているとは言い難いのですが)。  「タバコ」  この頃はタバコが大人の象徴で、かっこ良かったという話。  (p65)「とはいえいまの若者も、大人のふりをしたくてタバコを吸う。でもいまはもうタバコが輝いていないので、その格好がどことなく陰湿に見えてしまう。それがわかっていながらあえて陰湿さにひたるというところがあって、そこがやはり昔とは違う。タバコを吸うことの不良気分は、昔もいまも同じにしても、昔の不良気分にはそういう淀みがなかった。」    「政治スローガン」  この頃、赤瀬川氏はバイトで装飾の仕事をしていました。看板屋さん。労組の大会、選挙の立看やデモの横断幕なんかも描いていたそうです。総評大会の看板レイアウトの仕事の時などは、御指名がかかったとの事。 (p75)「そこで仕事をするようになると『憲法』とか『安保』とか『反対』とかの文字が多い。安保や反対は字画も少なく描きやすいからよかったけれど、憲法が出てくると、うーん、と顔がゆがんだ。物凄く字画が多くて描きづらい。」  「安保反対」はいいけど「憲法」は困る。妙に可笑しい。  「映画ポスター」  某産党系の看板屋さんでバイトしていた頃、オストロフスキー原作の映画『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(^O^)のポスターを描いたとの事。既に左翼に幻滅していたし、絵に描いたような社会主義リアリズム、社会主義の修身の教科書みたいな話なので、赤瀬川氏、どうにも創作意欲が湧かない。あんまりやる気のない状態で、「KUSOリアリズムでごちんと描いた」そうです。  でも赤瀬川氏、そりゃ日本を代表する前衛芸術家になる人ですからね、石膏デッサンなんかで磨いた技術でばっちり主人公の顔なんかを描いた訳です。  で、某産党で大評判になってしまった。やる気なく描いたのに。  大評判になってしまったので、その党の映画『日本の夜明け』の仕事が舞い込みます。態々こちらの技術を見込んでの依頼ですからね、今度は気合を入れて描いた。  こっちは上手くいかなかった。  (p92)「絵と違って、デザインの仕事というのはそういうものかもしれない。」  アートとデザインの違いね。  「東京の夜」  前衛芸術に燃えていた頃の話。赤瀬川氏、作品の事を考えると冴えて夜眠れない。  (p97)「頭が冴えて眠れないわけで、異常なことも体験する。ふと、時計が止まるぞと思い、顔を起こして枕元の目覚まし時計を見ると、カチ、カチといった秒針がカチリと止まる瞬間を見てしまう。ネジ巻き式のネジが、その時尽きたという瞬間を目撃したわけで、そんなことが何度かあった。」  「名神高速道路」  初めて高速道路を走った時の話。今では当たり前ですが、当時は画期的な事だったのです。友人たち三人で初めて日本に出来た高速道路、名神高速道路へ。乗った車はヒルマンミンクス。当時いすゞ自動車が生産していたイギリスの車。  100キロ越えるぞと、その三人、スピードメーターの微妙な揺れ動きを、息を詰めて見ていたそう。背中も肩も首筋も動かない。  やがて一般道路に出て(p122)「みんなしばらく無言だった。とにかく高速を走ったのだ。ちょっとしてから、若社長(友人の一人)が、『ふっ・・・・』と肩で息をついたのをはっきり覚えている。信号のない道路で、百キロを超えることにこれだけの緊張があったのだ。」  可愛い(可愛いといっては失礼か)。  (p121)「一度やってしまったことは、二度目からは簡単である。でもその一度目に初めて常識を超えることが、どれほど大変なことか。いまは茶髪なんて誰でもずるずると染めているけど、1955年、仲間の一人が初めてオキシフルで金髪にしたのを見たときは鳥肌が立った。」  「オート三輪」  95年にベトナムに行った際、現地でオート三輪ががんがん走っているのを見かけたという事から、日本の60年代のオート三輪の話へ。  赤瀬川氏の(そして私の)疑問。「アメリカにも昔はオート三輪が走っていた時代があるのだろうか」。ニューヨークやロンドン、パリでオート三輪が走っているのをイメージするのはなかなか難しい。ないのではないか。  (p128)「となると、(日本の)『60年代』というのは、西洋とはちょっと違う、アジア各地を時差をもって出現していく独特な匂いなのかもしれない。」  「公衆電話」  初めて公衆電話のボックスに入ったときは緊張したという話。戦闘機のコックピットに入った時に似ていたそう(凄いね)。  (個室型ではない)一本足で、小さなプラスチックの囲いの中に入っている公衆電話は、駅前の酒屋でキュッと一杯酒だけ引っ掛けて行く行為に似ている、という話がそれに続きます。用件だけ短く、キュッと一言二言。  (p171)「しかし似ているなあ、酒と電話。しかしそのデンでいくと、ケイタイというのはいつもポケットに酒ビンを持って歩いているようなものだ。とすると、ほとんどアル中に近い。アルコール依存症ならぬケイタイ依存症。」「電話というのはないと困るけれど、街角にぽつんとありさえすればいいわけで、そうかけるものではないと思う。」

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