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(その1)の続き。
感動的な吉野さんの台詞。 (p76)「吉野さんの現在の生き甲斐はなんでしょうか?(略)」「(略)生き甲斐といったら、それこそ社会を、政治をですね、変革するということになるんじゃないでしょうかねぇ。そのひとことだけで、いいきれるんじゃないかと思うんですよ。」(略)「将来に託せる希望といったら、いまいったように、社会を変革するということと、それからもうひとつは、自分がですね、もういちど社会に出て、本当にあの、人間らしい生活ができるということですね。というのはですねぇ、僕ですね、最近ですねぇ、この押入れの中にクモの巣ができていたんですね。小さなクモなんですよ。で、小さなクモの巣のところをちょっと手で触れて、網をひっかいたんですね。そしたらそれをですね、そのちっちゃいクモですらね、編み始めるんですね。一生懸命ですね。これをみてですねぇ、クモの巣がですね、クモが編んでゆくようなあの自力ですね、なんで僕が、それが出来ないんだろう、そう思ったですね。本当にそう思ったんですよ。本当に俺は、今まで人間らしい生活をやって来たんだろうか、そう思いましたですねぇ。」 (p79)吉野さんが「生き甲斐は社会を変革する事だ」といいはなった瞬間、これこそが、言葉の正しい意味での「原子爆弾の効果(エフェクトオブアトミックボム)」だ、と直感しました。 (p84)最後に、吉野さんが問わず語りに語ったクモの巣の話は、私を驚かせました。木賃アパートの三畳間の片隅で、破れた巣を一心につくろっている一匹の小さなクモ。そのクモの営みを見つめて、人間らしく生き抜こうという思いを、もう一度自分自身にたしかめている吉野さん。それは26年間にわたる吉野さんと原子爆弾との闘いの物語を締めくくるのに、もっともふさわしいシーンであるように私は感じました。 (p95)原子爆弾が吉野さんから、人間らしく生き死にするために必要な条件を根本から奪うものだった、そのゆえに、吉野さんがその後も生き続け、人間らしく生き続け、自分の人間らしさを回復しようと努めたその営みのひとつひとつは、抜き差しならず、原子爆弾を否定し返す性質を持つほかなかったのだ、と。 その営みの二六年目の到達点として、私は「生き甲斐は社会を変革する事だ」という言葉を聞いたのです。 (p97)最も根本的に自分の人間らしさを原子爆弾によって否定された吉野さんは、自分の人間らしさを最も根本的に取り返し、原子爆弾を否定し返す事の結論を、社会の変革にみいだすほかはなかったと思うのです。 (p97)原子爆弾と吉野さんのこの関係を、原子爆弾=加害、吉野さん=被害者、という図式だけでとらえきれない事は明らかでしょう。私は吉野さんの話を聞き終わった時、もう、これから先どれだけの数の被爆者に会っても、これ以上の話にめぐり合う事はないのではないか、と感じました。豊かな感情、躍動する言葉、意外性とクッキリした情景に満ちた話には、これからまたいくらでもめぐりあう事が出来るでしょう。 しかし吉野さんより多く、原子爆弾から奪われる事はまずない以上、吉野さんより多く、原子爆弾から奪い返す事はありえない以上、その話の本質において、吉野さんの話を超えるものはないだろう、そう感じたのです。 (p99)原子爆弾を廃絶させようとする被爆者の意思は、自分達の人間らしさを回復しようとする、被爆者の営みの到達点としてあります。 それは原子爆弾の使用が奪う事が出来なかった、被爆者の生命の力の、必然的な帰結でしょう。 自分達の体験が、同じ体験を人々にさせないうえで役立った、という事をつうじて、被爆者はその人間らしくない体験が、人間世界のなかで意味を回復し、自分達の人間らしさがすこしでも回復された、と感じる事ができるでしょう。 しかし時々インタビュアー伊藤氏が感じる小さな違和感(この辺り、小説、映画ならゾクリとする伏線に当たる)。例えば。 (p68)(小さな疑問。当時の吉野さんの初任給が高すぎる事)ただ三日目に録音に訪れたとき、吉野さんが、「あの額はやはり、間違っていなかった。自分は全国金属という労組に手紙を書いて、昭和35年ころの工場労働者の初任給を問い合わせ、大体、自分が言った金額と同じくらいという答えを得た。」と、こう主張したことは私を驚かせました。鉄鋼労連ではなく全国金属だったわけもよく判りませんが、それはともかく、巨大な官僚組織でもある大きな労働組合が、こういう問い合わせに、すばやく返事をくれるものでしょうか。(略)これもまた、たいして意味のないエピソードかもしれません。 (p80)傍らで私は、この話は本当だろうか、と思いました。その傍証が欲しいと思いました。 (p80)私はまず、吉野さんの話に深い感銘をうけました。第一にこの話が、鮮やかな情景に満ちていることに感じ入りました。第二に、吉野さんの話の中の最も印象的な登場人物である、「姉さん」の生と死に、心からうたれました。第三にこの話の内容全体に--つまり原子爆弾から、人間らしく生き、人間らしく死んでゆくために必要な条件を徹底的に奪われた人間が、人間らしく生き抜くための営みのあげくとして、最も徹底的に原子爆弾を否定し返す、その高みにたどりついているという、吉野さんの半生そのものに、最大の感動を感じました。 (p82)ただし被爆以前の生活や、直接の被爆体験そのものについては、吉野さんの話はけっして「第一級」のものとはいえません。この部分についての吉野さんの記憶は多少混乱しているように私には感じられました。ほかの人々の話をぬきんでている、具体性をもっているとも思えません。 段々と、インタビュアー伊藤氏の中で膨らむ疑念。 (p110)吉野さんの話そのもののなかにも、細かい点では、よく判らない事がありました。 1935(昭和10)年の早生まれの人は、被爆した時国民学校の五年生のはずですが、吉野さんは四年生でした。 生き残った「姉さん」を除く、ほかの兄や姉の名前を、吉野さんが憶えていない事も一寸不思議でした。 (p111)夏休み中の八月九日、生徒達を登校させていなかった事は、三年前、教頭先生から、直接うかがっていた事でした。これは吉野さんの記憶違いでしょうか。それとも生き残った先生方の気がつかない「史実」があったのでしょうか。 (p111)爆心地から至近距離にあった長崎医科大学付属病院が被爆によって廃墟となり、その直後、組織的な救護・医療の活動をその場所では行えなかった事は、当時、長崎にいた誰もが知っている事です。長崎市や諌早市の病院、学校などを転々とした長崎医大が、被爆した坂本町の施設で病院を再開したのは1950(昭和25)年10月の事です。この間、多くの被爆者は長崎市内、諌早市、大村市などの病院を転々としました。あれほど印象深く語られた吉野さんの病院生活の中に、この時期の転院が語られていないのは何故でしょうか。 (p112)被爆後20年以上もたってから被爆者を訪問し、その話の中の細かい矛盾を指摘する事自体、意味のない事であり、相手に対して失礼といわなければならないでしょう。かりに被爆者の記憶に曖昧な部分が生まれていたとしても、その責任は遅すぎた訪問者の方にあるのですから。私は「歴史家」として、歴史を編む為、被爆者に史実を質しているわけではありません。検察官として、被爆者を取り調べているわけでも勿論ありません。私は被爆者が正確な記憶を持っている事、それをそのままに語ってくれる事を期待はします。しかしそれを要求する筋合いではありません。被爆者がなにかの事情で事実を語らなかったり、粉飾や虚構をまじえてその体験を語ったとしたら、そのような人間の心、その心とその人が被爆した事の関係には、深い関心をいだきます。しかし、その事に私が苦情を述べる筋合いではないでしょう。 (p112)自分の疑問を露骨に述べる事を私はためらいました。そして心の中で、吉野さんは自分で話しているよりも、実はもっと若いのかもしれない、つまりもっともっと子供のころ被爆した人なのかもしれない、と考えました。 (p113)ただ、それにしても。 この話を正真の事実として第三者に紹介するという事になると、事情がかわってきます。 (p113)この話が大筋では、一番大事な中心の部分では真実であるという、傍証が欲しいのです。吉野さんの話を人々に聞いてもらい、それが私の期待通りの波紋をよんでいるうちに、吉野さんの過去をよく知っている人が現れて、「この話の大筋は本当でない」といってくるようになっては困るのです。 私は長崎の友人に手紙を書きました。友人からは二度に分けて、返事がきました。「長崎市役所の吉野さんは大陸からの引揚者で、お母さんも現存している。東京の吉野さんのお兄さんである可能性は全くない。」「当時の城山国民学校の教頭先生には、その姓の生徒についての記憶はない。在校生の名簿は無論残っていない。」 印象深い衝撃的シーン。 (p115)はじめて吉野さんにあった、その次の年の五月のある日、吉野さんが通院している目黒の診療所で、私は吉野さんと顔をあわせる機会がありました。その時、私は思い切って、本籍地から戸籍謄本をとってみてはどうか、と吉野さんに提案してみました。行方不明となったお兄さんやお姉さんの名前や正確な生年月日が判れば、長崎にいる友人達に頼んで、消息を調べてもらえると思う、私はそう説明しました。 その時の吉野さんの怒りを忘れられません。吉野さんはその時診療所のある部屋の椅子にすわっていたのですが、その椅子からとびあがりそうになって怒りました。「一体全体、それはどういう意味ですか!」黒い顔を真っ赤にして吉野さんは叫びました。吃音はいっそう激しくなりました。吉野さんの奥目は充血し、飛び出しそうになり、鼻の脇に、怒った犬のような皺がよりました。 (p116)得ようとした傍証や裏付けは、得られませんでした。吉野さんは私にとって、あいかわらずニュールンベルクの孤児のような謎の存在でした。 (p116)私は主としては、吉野さんを信じていました。被爆者がその被爆体験を語る、その行為のなかに、故意のいつわりが入り込む事ができる、と考える事自体が、私には憚られました。被爆者が偽りを語るかもしれない、という事を前提としては、私たちのこの作業は成り立ちません。話のウラをとる。これ自体がイヤな言葉です。 (p117)吉野さんが日本共産党の熱心な支持者であった事が、私の信頼を深めた事も正直に告白しておかねばなりません。 (その3)に続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年01月31日 19時33分02秒
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