続・アルトゥール・ジミェフスキ作品集『目には目を』を観る
「監獄実験」で人格は如何に変容するか。「自我の有り方」は普遍単一か。「繰り返し/REPETITION」2005年。39分この映画は1971年、カリフォルニアのスタンフォード大学で行われた、有名な「監獄実験」の再試験ドキュメンタリーである。日本でも公開されたドイツの劇映画『es』(2001年オリバー・ヒルツェヴィゲル監督)を憶えている方も多いだろう(テレビで放映されました)。あれのポーランド・ドキュメンタリー版である。実験内容は、有志の被験者を囚人役、看守役の二組に分け模擬監獄の中で2週間過ごさせるというもの。人間が如何に与えられた状況と役割に影響されるかを観察するのが目的。だが、予想以上に看守役の虐待行為がエスカレートし、たった6日間で実験は中止された。内容は劇映画『es』をもっと薄味にしたような印象。虐待といってもそれほど強烈な事は起きていない。「睡眠時間でも消灯しない」や「頭を坊主にする」といったもの。(囚人も結構やり返しているのに笑う。おしっこをスープに入れるのだ。)次々に囚人役は「被験者離脱」宣言をし、残った両者も、結局最後、話し合いの末「被験者離脱」宣言を全員して実験はめでたく?終了する。実験はあくまで実験にしか過ぎない。何時でも離脱できるから。実験と分かっているため、看守役もやはり無茶はしない。気になったポイント。映画のディレクターがあれこれ、虐待するよう誘導している(「あいつら囚人はなめているんだぞ」とか「あいつらは食事に小便を入れたぞ」とか囁く)。あれも実験の一部と考えるべきなのか?囚人が反抗的過ぎるのではないか?(なんとなく「中高生の授業中騒ぐガキ」を連想してしまったが)日本人なら同じ反抗をするにしても、ああした“ストレート”な反抗を示すとは思えない。表面的には看守役に合わすと思う。逆に看守役も適当なところで囚人役に合わすのではないか。(もっと陰湿ともいえるが)そう考えるとラストの結論じみた言葉に素直に首肯はできない。本当に“どんな”人間も「状況」と「役割」で簡単に邪悪なものへと変容するのだろうか。この実験は「現代の」「近代的自我(=欧米的と言っても良いだろう)」の危険性、脆弱性は指摘しているだろう。だが、そのモデルは普遍性を持ちうるのか?あるいは基準足りえるのか?そもそも基準があるのか?「自我のあり方」は単一の超地域的、超時間的なものなのか。だが欧米人である彼らは、いとも簡単に「あらゆる人間は」と言ってのけるのだ。自己の自我モデルの「普遍性」。この問題の反証可能性すら彼らは検討しない。そもそも思いつかない。早い話、この実験の被験者がアマゾンの裸族の人々だったらどうだろうか。「監獄」「監視」「命令」「看守」「囚人」といった概念さえ彼らが了解しているのか、疑問が残りはしないだろうか。(もっとも彼らも今は近代化(欧米化)してるけどね)単一硬直的な「自我」であるために、反って「自我」が環境によって変容しやすい社会と、流動的可塑的であるために逆に安定的な社会があるのではないか。(五重塔は何故地震で倒れないか)そして自我に可塑的因子を与える要素を欧米人は「封建的」「前近代的」時によっては「アジア的」と“命名”していったのではないだろうか。侮蔑とともに。また、「状況」と「役割」が人格に影響を与えるとしても、過去の蓄積は関係ないだろうか。何十年も信仰の世界に(欺瞞でもなんでもなく)生きている仏教僧なりカソリック神父なりが簡単に囚人に虐待を加えるだろうか。(俺なんとなく瀬戸内寂聴さんはしない気がする(^o^)そういえばスタンフォード大の被験者は若い男性だった。大学生ならまだ人格形成途上だろう。また、彼らは次の可能性も看過している。人は「状況」や「役割」で人格者にも短期間でなれるのではないか。「子曰く、性相い近き也。習い相い遠き也」これは先天的因子よりも後天的因子を重く見た孔子の言葉(『論語』陽貨編)であるが、その直ぐ次に「子曰く、唯だ上智と下愚とは移らず」の文がある事はあまり知られていない。「どんな境遇にいても堕落しない者もいれば、どんな習慣、教育によっても向上しないクズもいる」という事である。古くて新しい問題と言えよう。