11年前、僕は40歳で子どもを授かる事が出来ました。結婚はその前年。そもそも今の妻に出会うまで、結婚観などまったく無い人間でした。まわりも平気で50過ぎても独身を謳歌?している人達に囲まれていたせいもあったでしょう。まわりにも「お前は結婚しちゃいけない人間だ」と念を押されてましたし、自分でも経済観念も身に付いていない極楽とんぼのような生活をしていましたから結婚して家庭を持つということはお呼びも尽きませんでした。その背中を押してくれたのが「入院」と「姉の死」です。ある日、日頃の不摂生がたたり胃潰瘍になりました。「酒を飲みながら治すんだ」などと馬鹿げた事を言いながら再発、通院を繰り返して、とうとう血を吐き倒れました。友人に連れられて緊急入院という事になり、生まれて初めての1ヶ月間の「病院」生活が始まりました。10日間は絶食、点滴のみでした。朝6時には隣の教会の鐘が鳴り響き、病院の中にもシスターがいたりする、修道会が運営をしている所で、同じ敷地内にカトリック教会や老人養護施設や孤児院、幼稚園もありました。看護士さんや助手の人達も優しくて何ものかに「守られている」感じを強く持ちました。僕自身は無宗教ですが、ミサがあるたびに「マリアさまがいる病院」なんだと感じました。その昔、近くに結核病院があったころに、退院させられて行き場のない人達をみた神父さんが、この人達の帰る家をつくったのがこの病院の始まりだったそうです。そんな精神が流れていたんだと思います。(現在はこの病院は経営破綻で閉院になってしまいました)
この入院で、今までの自暴自棄的な生活を内省する時間はたっぷりありました。僕の胃潰瘍は食道まで冒されていて担当の先生には「老人の食道」と言われる酷いものでした。聖路加の日野原先生が名付けたそうですが「生活習慣病」とはうまく付けたものです。この生活習慣を見直さなければいけないとつくづく思い直しました。「食」に対する考え方も随分変わりました。退院後はそれ以前、肉や揚げ物が好きでしたがすすんで野菜や海草類を食べるようにしました。何しろ10日間なにも食べることが出来ない事と常に点滴を外せない事には重たい気分になりました。6人の相部屋でしたから食事の時間になると、点滴を転がして自分は談話室にいってテレビをみたりして食べたい気持ちを誤魔化してました。ようやく絶食の期間がすぎて水のような重湯から始まっりお粥、ご飯へと時間をかけて食べられるようになりました。口から舌で味わって食べられる喜びというものは健康な時には味わえませんでした。病気をすると普段何気なくしている事が出来なくなります。そういった何気ないことに「感謝」する気持ちを持てるようになったのはこの病気のお陰だと思っています。絶食のあとに最初に食べたお米の形が無いあの重湯が嬉しかった事は今でもまざまざと思い出せます。
家族や友人など沢山の人に心配をかけ、遠方からも近所からも多くの人に見舞いにも来て頂きました。そこを退院して思った事は、自分ひとりだけの為に生きる事がとても空しく感じたと言う事でした。愛する人がそばにいる家庭というのもいいなと思いはじめました。それから数年して家族で見舞いにも来てくれた姉が自害。またしても心の中に大きな穴が空きました。当時、姉の下の娘はまだ小学2年生。この子を姉の遺言通りに妹夫婦が親代わりになってもらい、僕も何か手伝える事をしようとその近くに越しました。それからしばらくして、以前から気になっていた彼女が旅の途中に、越した家に遊び来たんです。まるで「お前も家庭を持ちなさい」と姉に言われているようでした。『死について学べばおのずと生き方がわかる』とは誰の言葉だったか…。『人は愛しあわなければ死んでしまう。』とも。
子どもを持って思った事は「子どもは親に対して、絶対的な信頼を持っている。」と言う事です。自分が子どもの時も親は多分「神」に近い存在でした。「無垢」そのものなんですね。その信頼に対して親である自分は何が出来るのか…そう問いかけられているようでした。僕の答えは、こちらも絶対的な信頼で返す事です。人との関係の中で培われる物はお互いの存在を認め合い、嘘のない一対一の等身大の付き合いの中で少しづつ「信頼関係」を築いていくことが基本です。相手を理解することで、自分は、さてどうなんだろうと理解する。かといって人の心意は複雑ですから、すべて理解することは難しい訳で当然、ある程度の距離をおくことになります。この「心の距離感」がとても大切だなとつくづく思います。相手の持つ距離感と自分が思う距離感には違いがあることも考えなければいけないと思います。この距離が短くなればなるほど親密度は増すわけですが、こちらが思う程に相手は思っていない事もよくあるわけで、しばしば入ってはいけない所に足を踏み入ったり入られたりする事になります。あまりに違う価値観に出会うと、理解に苦しむこともあるし、話を聞いてみれば、なるほどそんな考え方もあるんだと感心することもあります。良いと思うものは取り入れてみるし、違うと思えば放っておけばいいだけです。
「たいせつなのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかでなく、どれだけ心をこめたかです。」というマザーテレサのことばは僕の座右の銘になっていますが、「心」というものに物量的な限界はないと思っていますから、何ごとにおいても「心をこめる」ことを心掛けています。子育てもまた「心をこめて」やる。まずはしっかり見てやる事だと思います。いっしょに何かやることがあれば「心をこめて」やる。それを感じてくれればいいと思っています。
料理なんかも、心の中で『おいしくなれ、おいしくなれ』と思いながら作ります。褒められるのは、おにぎりと味噌汁ぐらいですけと…僕のつくる味噌汁はなかなか評判が良いようで、妹に「なんでこんなに美味しく作れるの」と聞かれ先に言ったようなことを言ってやりました。
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