『グエムル 漢江の怪物』はなぜ日本でコケたのか、拙著『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』の枠組みを援用しながら解説すれば・・・。
『グエムル 漢江の怪物』はなぜ日本でコケたのか、拙著『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』の枠組みを援用しながら解説すれば・・・。 日本の「怪獣」は「異世界」からの「使者」であり、言い換えれば「黄泉」から甦ってきた「死者」である。この「使者」あるいは「死者」の登場によって「この世」の倫理が活性化され、人々が人としてのつながりを取り戻す「信仰」と「反省」の物語、これが日本の「怪獣」物語である。また、それが「あの世」からの「使者」であるからこそ、日本の「怪獣」は「この世」ならぬ不気味な姿で登場することになるのであって、「怪獣」が「怪獣」であることの基礎には日本人の死生観と倫理観が横たわっているのである。 もともと日本人は、倫理が「この世」で完結するというようなある種傲慢な考えは持ち合わせておらず、日本人にとって倫理は常に「異世界」からの「使者」によってもたらされると考える。日本人の倫理は「あの世」によって支えられているのである。 そして、このような「あの世」を否定したのがヒューマニスティックで合理主義的な朱子学に他ならない。朱子学的な祭祀は死者を鎮めるためにあるのではなく、死者を「そこにいるように」扱うことで「孝」を死者にまで及ぼしているに過ぎないのだ。だから朱子学での祭祀の欠如は「不孝」に留まり、それゆえに死者が祟ってくるような「あの世」的なものには成り得ないのである。 で、『グエムル』である。なぜ「グエムル」(「怪物」の朝鮮語読み)が生まれたのか。傲慢なアメリカ人が廃棄物を捨てたからである。なぜ娘を助けに行けないのか。他人が主人公の言うことを理解しないからである。その他、その他、悪いのは他人であり、他人は絶対に信用できない。だから可哀想な被害者家族は自分たちだけで戦うしかない。主人公家族はあくまでも被害者であり、徹底的な被害者であり、しかも救済やヒーロー誕生のカタルシスとは無縁である。そんなものは不要なのだ。必要なのは、自分たちが被害者であることの確認であり、自分(たち)が被害者であるが故に正しく選ばれた存在であることの再確認、ニーチェが言うような弱者の正義による逆立したカタルシスこそが、そこでは求められているのである。可哀想な被害者の「私」、それだけで充分なのだ。 だから『グエムル』には、日本の「怪獣」映画にあるような、危機を乗り越えて「私」と「公」が信頼関係を取り戻す、という倫理的な構造は観られない。そもそも『グエムル』では「身内」以外は全く信用できない他人として描かれており、「公」への信頼は胡椒一粒ほどしかない。むしろ「公」は悪の世界である。これは、日本人の「公」が実は「死者」への「祭祀」によって支えられた「あの世」的な空間であることの裏返しであり、つまり「あの世」を否定した朱子学は朝鮮で純化されることで「公」の否定にまで至ってしまったわけで、その殺伐とした個人主義的な風景は日本人にはおぞましすぎて観ていられない。朱子学的世界に「怪物」など似合わない。そこに生きる人間にとって他人こそが「怪物」である。 で、見事『グエムル』は日本でコケた。 これが日本で売れると思った関係者の皆さん、拙著を熟読してください。 もちろん「韓国映画」としては相当な完成度に至っています。相変わらずソン・ガンホが素晴らしい。