石冢雄人のナイチンゲール・カンパニー

2006/03/27(月)20:43

わかっていない作家たち

情報技術(49)

ミステリーはナゾだらけで、ナゾがナゾを呼び合理的な結構が整つて大団円が来るという、そうした固定観念。筋が剥きだしの鉄骨の鉄筋コンクリートのごとくに味気なく、理が勝ちすぎて筋ばかりを追うその目も心もひからびて、さながら紙芝居や劇画であるか。そのようなオハナシが物語であるわけもない。だが、世間ではそうしたものこそが小説であり、そうしたものをでつち上げることが「作家」であるらしい。もはやこれらはチエスのごとくにモダーンで将棋のごとくに勇壮でゲームのごとくに奇天烈だ。ミステリーとは何か。われらのこの「生」そのものにほかならない。あざとい筋立てがストーリーであるとカンチガイして、ひとびとは新しい物語を追う。物語がそのじつはそうしたことからおよそもつとも離れた地平にあることに、気づきもしないで。 洋装も和装も、その見た目の外観の問題でないことくらいは、すぐれたフアツシヨンデザイナーなら承知しているだろう。いや、ハリウツド映画やテレビドラマや昨今の漫画劇画ばかりを云つているわけでもない。コツプに汲んだいつぱいの水がテーブルに置かれてゐれば、それこそがドラマなのだ。水は「ことば」であり、ことばこそがドラマを生むエンジンにほかならない。ひとはことばでつくられる。世界もことばより誕生する。

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