2006年人生最大試練の年 子宮筋腫・父との別れ・母との暮らし運気はあがっていくこの1年をゆっくり振り返ってみます。この1年は、本当にいろんな事がありました。楽しい事も、悲しい事も、全部味わった激動の1年でした。 何よりも悲しかったのは、大好きな尊敬する父が他界した事です。 子宮筋腫:父の看護もこの先あるので 私は 女として悩んだあげく”子宮を摘出する” という大きな選択を決意しました。1月17日手術に挑みました。 通常90分もかからない手術が、4時間30分に及ぶ大手術となりました。10代の頃の盲腸の手術の傷が周辺の臓器と癒着を起こしていたようです。3300ccとの大出血、命を落としていたかも、、と思いました。最悪の輸血まで(9単位)体験しました。9人の他人の血が身体に入ってるの?術後は、複雑な気分でした。(輸血によるその後の検査は異常なし) 早く職場に復帰せねばならない思いと、思い通りに身体が回復しないジレンマと闘い ストレスからくる胃の痛みと腸閉塞で再入院という最悪なパターンになりました。 2月14日 かなり無理して職場になんとか復帰しました。 3月16日、10年前の事故の傷跡、耳介腫瘍切除という手術も受けました。 3月は帰省なし。 春になると自分自身の体調の回復は順調でした。しかし、父の癌は進んで行ったようです。 一見よくなったように思えた癌(私だけ)も、この時ぞとばかり増殖を始め腫瘍がだんだん大きくなり、幹部から出血を繰り返していました。4月からは 月に二度釧路に帰省。 嬉しい話もありました。長男は専門学校の研究科に進学、家からの通学です。 次男は演劇を(ダンス)学びに大学進学。東京で念願の 一人暮らしが始まりました。 5月には、次男が東京ドームでKATTUNのコンサートにバックダンサーとして出演。 ジャニーズたちとレッスンを受け楽しい様子でした。思いっきり踊り楽しんだようです。 6月には関ジャニのコンサートにも出演。5、6ステージ出させてもらいました。 代々木体育館だったと思います。ノーギャラ!には笑えました。ギャラなんていらないさ。と彼らしい返答。楽しい思い出ですよね。 今でもジャニーさん、特に振り付けのサンチェさんは彼の憧れのようです。その方のレッスンを受けられただけでも本望という純粋にダンスが好きなのです。勉強になったと言っていました。 大学でも ダンスユニットを結成。元ジャニーズのK,I君もいてなかなか楽しそうです。 夏が近くなり、父の癌が進むのと、母の認知障害の進み具合がこの頃の悩みでした。 お風呂に入りたがらない。食事の支度(自分だけしかいないので)ができなくなる。お金の管理ができなくなる。などなど、、、母を一人にしておく事に危機感を感じていました。 母を支えてくれたのは、従姉妹の和子ちゃん夫婦。ケアマネ椿さん、ヘルパーさん。本当にありがとうございました。近所の方も遠慮がちではありましたが気にはかけてくれていたようです。 5月15日父が入院しました。 特に治療方法はないけど 最後まで病院で面倒を見てくださるという事。 つまり先は短いと言う事です。その頃言われたのは、せいぜい命があってお盆までくらいです。 主治医の先生、労災病院のスタッフの皆様最後までありがとうございました。 私が帰省する時1泊、2泊だけ父は外泊を許されていました。 それにあわせておいしい日本酒を送りました。二人で飲みました。 父と散歩をしたり楽しい時間を過ごしました。 父の不安は唯一、残して逝かなくてはならない母の事だったと思います。 最期、息を引き取る前に私は父に約束しました。 お母さんは大丈夫だから。。。 8月には最後の帰省になりました。 8月の初旬に帰った時、父は既に食物が喉を通らなくなっていました。 翌週には 水分さえ喉を通るのを拒否されているかのように。。。 その翌週には モルヒネが始まりました。意識が混濁します 私が夜いなくなるのを不安がる父、家を空ける事に 今ひとつ理解できない母。 両方に挟まれて父をとるか、母をとるかではありませんが、ただ、ただ残された日々は父のため、、、と 割り切るしかなかったかな。。と思います。 父がもうすぐこの世を去る事が理解できない母。 確実に父はいなくなるということをに向き合っていた自分。 夏の終わり それが現実となりました。 葬儀を行うということは、亡き人の人生にけじめをつけてあげると言う意味でとても大事な事だとわかりました。一人娘としてお寺のとのかかわりの大切さも少し知りました。 1週間で身内だけの骨納めをお寺にして翌日には引っ越し屋さんが実家の引っ越しをし(この日まで夫は一緒でした)、9月2日には母を連れて釧路を離れ、その翌日には勤務に戻りました。 あたふた引っ越しをして残して来た物が多く、 たくさんの思い出を失った気分です。 今でもたまに 父の悲しみに酔えなかった自分は一人でなく時間が欲しいと思います。 不思議にあれほど悲しかったけれど通常の勤務に戻れました。スムーズに時間は流れているようで下が、逆にこれらのストレスが12月にきたのでは?と思いました。 秋は、母にとって新しいスタートでした。急いで介護の手続きをとり、ヘルパーさんに入っていただきました。幸いヘルーパーさんとも相性がよく、あれほどいやがって行かない!と言っていたデイサービスが楽しいようで全ての茨城の生活をすんなり受け入れてくれました。9月25日は母81歳になりました。ケーキを買って祝ってあげました。 私は安心して勤務を続けられました。危惧していたのは母の介護がすぐくるのでは?と思った事です。本当に母の生活順応性には脱帽です。女は強いわ。 息子達も自分の時間を過ごしています。 私の趣味であるフラメンコ。今年は5回しかレッスンに参加していなかったのです。 今はグアヒーラという扇を使ったエレガントな曲にチャレンジです。 12月、母を銀座で行われたフラメンコ/曾根崎心中に連れて行ってあげる事ができました。 この日、風邪をひかないか、体力があるか小さな子供の家族旅行待ちみたいにドキドキでした。 長男は行けませんでしたが、次男と久しぶりにあって夕食も楽しかったようです。 クリスマスのイルミネーションも楽しめました。 同じく12月に私の習っている先生羽のライブに連れて行ってあげました。 おしゃれして出かける事は女性にとってメリハリがついていいようです。 この日は私の方が風邪で病み上がりでまたまた容態が悪くなりました。二人で風邪もひきましたが母の方が体力ありそうです。 12月後半私は初めての頭痛に悩まされ検査をしたり、痛みと2週間ほど闘いました。今は大丈夫です。自分は病気になっていられない!と強く思いました。 ベトナムから母の甥っ子夫婦が訪ねてくれたり、嬉しいようでした。 母にとっては 楽しい第3の人生です。盛り上げて上げましょう。 クリスマスも,次男は東京ですが、ツリーを飾りプレゼント交換をして楽しく過ごせました。 全て夫の協力のおかげだと思い感謝しています。 母には夫から、Mr.BeanのDVD。私からは1ヶ月早く冬のコートを母にプレゼントしました。 それから次男は来年2月の下北沢の本多劇場での演劇 ”月の子供” に出演するため練習を重ねています。風間トオルさん、マナカナさんたちが出演します。1週間くらい続く大きな舞台です。 だから母に歩く事は大事よ。。と 2月まで風邪ひかないでいようね。。と 楽しみを先に作って元気を維持です。 2006年辛い事も今は楽しみとしてあります。 父はいなくなったけれど私たちの心に生きています。 父から心のメッセージを今でも受けています。不思議ですね。 おとうさんありがとう。 プランターの水仙がもう咲いています。母がとても感動しています。母の感動する心はとてもかわいいです。 |