死ぬまでうたたねブログ

2011/04/03(日)05:28

『街場のメディア論』

ご本(122)

【送料無料】街場のメディア論 『街場のメディア論』内田樹/光文社新書 私は辞書を引くことが好きなのだけれども、内田樹さんの本を読んでいて辞書を引くことは少ない。 複雑で含蓄があり(こういうのを含蓄って言うんだろうと思わされる)、ありふれた、使い古された、お茶を濁すような内容の話は一切ないのだけれど、その内容を誰にでもわかるような優しい言葉で、分かりやすい構成で、手順を踏んで書いている。おしゃべり上手な人だ。 ■これは心に止めたい 「ほんとうに『どうしても言っておきたいことがある』という人は、言葉を選ぶ」(P94) 自分の言葉を本当に理解して欲しいと思っている人は言葉を選ぶ。 逆に、そうでない人は言葉に責任を持たない。自分が言わなくても、誰か他の人が言うならば、説明を尽くす必要がない。 私はライターなので、しばしばたとえば凶悪事件の記事のまとめに、「再発防止のために、隣人との絆を強めよう」と書く。たとえば景気動向の記事のまとめに、「先行きの見えない中、各々が不安を抱えている」と書く。たとえば震災関連記事のまとめに、「ひとりひとりが、できることからやっていきましょう」と書く。間違いではない。間違いではないけれど、どこか空虚だ。 それはもうすでに何人もの人が言っている言葉で、私が改めて言う必要もないことだからだ。私が一読者ならば、脳が文章を読み取る前に、目が無視するだろう。「この一文に有用なことは書いていない」と思う。アニメの中で使い回される、背景の木の絵のようなものだ。 しかしもちろん、たまには自分が「これを言いたい」と思う記事を書ける機会もあるわけで、その記事を書いたときの気持ちよさを知っているから、この仕事を続けているのだと思う。 ■読者は消費者ではない 「読者は消費者ではない」と筆者は言う。 消費者とは、できるだけ安く、労力をかけず良いものを求めようという人だが、本を読む人とはそうではない。 「『読者は消費者である。それゆえ、できるだけ安く、できるだけ口当たりがよく、できるだけ知的負荷が少なく、刺激の多い娯楽を求めている』という読者を見下した設定そのものが今日の出版危機の本質的な原因ではないかと僕は思っています」(P130) 私は中学生の頃から、論説文よりも小説の読解の方が得意だった。これは多くの人がそうだと思うけれど、新書を1冊読むのは同じ長さの小説を1冊読むのの2倍以上の時間がかかる。経済が苦手なので、日経新聞を読む方が読売新聞を読むより時間がかかる。同じ小説でも、現代の国内小説を読むのに比べて、外国の古典を読む方が時間がかかる。 けれど、それでは新書や経済的テキストや外国の古典を読まないかと言ったらそなことはない。自分の好物ばかり食べていたらいけないと小さい頃から言われたじゃないか。 好きな本、得意な本ばかり読んでいても、達成感は感じられない。自分のレベルより一段高い本を一冊読んだということは、逆上がりができるようになったときや、50メートル泳げるようになったのと同じくらい嬉しいことのはずだ。それが読書の楽しさなのではないか。 「お子様ライス」はそれなりにおいしい。でも、それが「お子様ライス」だという自覚があれば、良識のある大人は注文しない。「お子様ライス」だけを供給するばかりではなく、「これは大人の方が食べる『お子様ライス』です」という嘘をつき続けてはいけない。

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