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カテゴリ:東海道五十三次:往路
箱根峠からは、甲石坂(かぶといしざか)、石原坂、大枯木坂(おおかれきざか)、小枯木坂(こかれきざか)と下ります。延々と下ります。
この道のりで是非とも見たいモノが二つほどござれば。 一つは「兜石」。 秀吉が小田原攻めの時に、休息して兜をおいたと言われる石(または兜の形に似ている石)で、元は甲石坂にありましたが、今はその先の山中新田一里塚の近くに移されています。 兜を置くにはでかすぎね!? と、しばしガン見。ワタクシの背丈近く(!)あります。 でも、秀吉が通った時からあった大石にはかわりなく。ほほぉ~ 甲石坂にある跡碑 移された兜石 もう一つは「雲助徳利(くもすけとっくり)の墓」。 杯と徳利が浮き彫りにされた珍しい墓です。 この墓の主は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間になりました。 優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助達の手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに、やがて雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。 しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので寿命を縮めることになってしまったのです。 彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓をたてて恩返しをすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、杯と徳利で刻むことにしたました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。 * 雲助:江戸時代に、宿駅、渡し場、街道筋を舞台に、荷物の運搬や、川渡し、賀籠(かご)かきなどを生業とした、住所不定の道中人足のこと。 ワタクシも酒飲みなので、このお墓にはとても興味があったのですな。 お参りしてから失礼のないように一言断り、写真を撮らせてもらいました。 小枯木坂を過ぎたところにひっそりと建っております。 更にずずずずいっと下っていきますと山中城跡がありますが、あまりにも広大で、そして塀や土塁の跡が残るのみだったので、素通りしましたのん。 ちなみに山中城は、北条氏が小田原城を防衛するための城でしたが、秀吉の大軍に攻められて半日で落城しました。 そして、どうにか暗くなる前に、山道を抜けまして。 他人様の庭を通ったり(!)、石畳を畑仕事のトラックが通ったり、最後は「けもの道」みたいに草ぼうぼうだったりと、いやはやもー大冒険。 わはは~、楽すぃ~(既に壊れたw) こんな写真の所から人が出てきたらビックリするってばよ なにはともあれ、もう現代の国道・県道と重なっておりますれば、とりあえず一安心でござんす。 眼下に三島宿を眺めながら、上長坂(かみながさか)、下長坂、そして、小時雨坂(こしぐれざか)、大時雨坂、臼転坂(うすころばしざか)と、まだまだ下ります。 下長坂あたりは、坂があまりにも長く、しかも急なので背負っていたお米が、汗と熱でこわめしになったとのいわれから「こわめし坂」とも言われており。 えっと、ブログで仲良くさせてもらっている、キティパパ2000さんのルーツでござれば そして、そろそろさよなら箱根路~ 三島宿はもうすぐそこ 箱根路の碑 更に初音坂(はつねざか)、愛宕坂(あたござか)、今井坂を下り、東見附跡の新町橋。 東見附ってことは、、、 三島宿だよ、お蘭ちゃんっ!!! ついに、箱根のお山を越えたよっ、無事越えたんだよっ いくつの坂を上り、いくつの坂を下りてきたか。 石畳に難儀し、甘酒に救われ、箱根峠で迷い、おぢさんに救われ(笑)。 薄暗い旧箱根街道を涙ちびりながら進み。 やっとたどり着いた三島宿。感激 とりあえず、三嶋神社まで行きまして、本日の旅は終了としたでござんす。18時前。 よ~おっ、よよよいよよよいよよよいよいっと 小田原宿~箱根宿~三島宿 約31.2km、11時間 今回は、よう歩きなさったな。 とりあえず安堵感で一杯でござんす、、、つづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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