岩槻区尾ヶ崎 光秀寺の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら尾ヶ崎、尾ヶ崎新田は緑区の美園の東の地域で、埼玉スタジアムの周辺の大規模な区画整理に伴って、新しく道路も整備され、特に尾ヶ崎新田の一部は住居表示が「東美園」になるなど、周囲の様相は一変しています。資料に載っている石仏のいくつかはその所在がわからず、整理にだいぶてこずりました。今回は尾ヶ崎・尾ヶ崎新田・東美園をまとめて「尾ヶ崎地区」として記事にしてゆきたいと思います。今日は光秀寺の石仏を見てみましょう。光秀寺 岩槻区尾ヶ崎888[地図]県道324号線釣上交差点から北へ1400mほど進み、綾瀬川の支流の黒谷川に架かる田原橋を渡った先を右折すると左手に光秀寺の入口があった。山門のずっと奥正面に本堂が建っている。山門を入ってすぐ右側に五基の石塔が並んでいた。右から 庚申塔 元禄13(1700)四角い台の上の大きな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。塔全体に白カビはほとんど見当たらない。目を吊り上げ口をへの字に合掌する青面金剛。他では見たこともないユニークな髪形、その真ん中から蛇が首を垂れる。ショケラは深く折り曲げた足を両手で抱え斜めに降られる形。これは「岩槻型」庚申塔で多く見られ「岩槻型」庚申塔のショケラの基本形といえそうだ。足の両脇に二鶏を半浮彫り。足元の邪鬼は上半身型でM字に腕を張り大きな顔を正面に向ける。その目は三角に吊り上がり口はへの字、青面金剛によく似ている。塔の上部両脇に造立年月日が刻まれていた。邪鬼の下に正面向きに並んで座る三猿。頭部が小さく肉付きが良い。塔の最下部に七名の名前が刻まれている。この庚申塔は2017年2月の記事を見ると、当時ここにはなかったもので、資料にも記載がない。初めは気が付かなかったが、こちらは野孫神社の北の細道の奥に立っていたものだった。いつのことかはわからないが、その後こちらに移動されたものらしい。(2017年2月13日の記事参照)その隣の小堂の中 三界万霊塔 享保6(1721)四角い台に角柱型の石塔と厚い蓮台を重ね、その上の舟形光背に剣と宝珠を手にした坐像を浮き彫り、資料によると不動明王だというが、どうなのだろう?角柱型の石塔の正面中央に「三界萬霊等」両脇に偈文。塔の両側面は隙間が狭く写真は撮れないが、右側面に造立年月日。施主 尾ヶ崎新田村とあり一名の名前が刻まれている。続いて 庚申塔 元禄2(1689)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多く光背も一部が欠けていた。顔の表情はいま一つはっきりしない。持物は矛・法輪・弓・矢。二組の腕は青面金剛の腰のあたりから出ている。足元の邪鬼は全身型、顔だけを正面に向ける。光背上部両脇に造立年月日が刻まれていた。邪鬼の下に比較的大きな三猿が肩を並べて正面向きに座る。塔の最下部、中央に施主とあり、その両脇に八名の名前が刻まれていた。その隣 地蔵菩薩塔。薄い台に角柱型の石塔・蓮台を乗せ、その上に丸彫りの地蔵菩薩像。首に補修跡があり、錫杖の先を欠く。角柱型の石塔には戒名が刻まれているが、紀年銘は見当たらず、造立年などは不明。左端 光明真言供養塔 明和元年(1764)唐破風笠付き角柱型石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に錫杖と宝珠を手にして蓮台に座る地蔵菩薩像を浮き彫り。坐像の下、中央に「奉念誦光明真言一百万遍供養塔」上部両脇に造立年月日。下部両脇に合わせて五名の名前が刻まれていた。参道を進むと、本堂の左手前の大きなイチョウの木の近くに「地蔵堂」があり、その脇に石塔が立っている。六十六部供養塔 正徳6(1716)四角い台の上の駒型の石塔の正面に「奉納 六十六部願滿塔」台の正面には蓮の花が彫られていた。塔の右側面上部に右から左へ「天下泰平」その下に二行。右「有縁無縁三界萬霊」左「六親眷属七世父母」左の銘は時々見かけてるもはせ、先祖の供養のためという個人的な意味と思っていたのだが、どうやらそうとも言えないらしい。今の家の先祖というよりも、人は輪廻の生まれ変わりの輪の中にあって、七度の前世におけるそれぞれの父母、生きとし生けるものすべての幸せに思いをはせる。そういった意味もあるという。その下には二つの戒名が並び、さらにその下中央に尾ヶ崎村とあり、個人名が刻まれている。左側面上部に右から左へ「國土安穏」その下に二行に造立年月日。さらにその下に助化とあり、続いて野嶋村など近隣の村の名前と六つの戒名。左脇に武州﨑玉郡尾ヶ崎村 願主 萬山禪國と刻まれていた。お堂の中の地蔵菩薩塔。扉の隙間から撮った写真はなかなかピントが合わない。舟形光背に美しい地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」尊顔は端正で品がある。光背右脇に「奉参詣百堂順礼各願成就所」光背左脇「為□□地蔵菩薩・・・」下部両脇の銘はうまく読めず、紀年銘は確認できなかった。大イチョウの向こう、本堂の左一帯に墓地が広がる。その入口あたりには無縁仏が、その後ろには多くの卵塔が並んでいた。無縁仏群の先を右に折れると、二組の六地蔵菩薩塔を中心に多くの石塔が整然と並んでいる。前後に並ぶ二組のうち、前の丸彫りの地蔵菩薩塔は大きく破損。四体は頭部を欠き、二体だけがかろうじて損傷を免れていた。右端の地蔵菩薩塔は膝から上をそっくり欠いていて、その左脇あたりに欠け落ちた部分が残されている。蓮台の下の石塔の正面中央に尾ヶ崎村とあり、その右脇に享保7年(1722)の紀年銘、左脇に「念佛講中」と刻まれていた。右から2番目の石塔の正面に地蔵再建組中とあり、両脇に嘉永2(1848)の紀年銘。他の四つの石塔の正面には世話人、施主名などが刻まれている。こちらの六地蔵塔は嘉永2年に造立されたもので、それ以前にあった享保7年創建の六地蔵塔を再建したものということだろう。後ろの六地蔵菩薩塔 宝永2(1705)はやはり丸彫りで、前の六地蔵菩薩塔に比べると一回りサイズが大きい。白カビは多いものの、損傷は意外と少なく、右から2番目の地蔵菩薩像だけが首が欠けていた。六体の背中には全く同じ銘。上のほうに施主とあり、右に造立年月日。左に念佛講中と刻まれている。前列の六地蔵菩薩塔の右脇 庚申塔 享保10(1725)小型の舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。髪の間から蛇が首を垂れる。カビも多く見にくいが上左手の持物はショケラのようだ。足元にM字に腕を張り大きな顔を正面に向ける邪鬼。その下の狭いところに消え入りそうに小さな三猿が彫られていた。後ろの六地蔵菩薩塔の左脇 六十六部供養塔 享保7(1722)唐破風笠付き角柱型石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に阿弥陀如来坐像を浮き彫り。その下に「六十六部塔」両脇に造立年月日。塔の左側面に八名の戒名。右側面中央「有縁無縁三界萬霊」右脇に願主 田翁沙弥。左脇に 助化 六百拾四人と刻まれている。その隣 大乗妙典供養塔 正徳4(1714)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養塔」右脇に南無大悲観音菩薩、左脇に南無大地蔵願主菩薩。塔の右側面に造立年月日。左側面に武州﨑玉郡尾ヶ崎村 願主 一名の名前。ここで改めて確認しておくと、大乗妙典六十六部日本回国塔(六十六部塔)は、全国六十六ヵ国の寺社を順礼し、それぞれの寺社に写経した大乗妙典=法華経を奉納した供養塔。今のように交通機関が発達していない時代のこと、徒歩で全国各地を回るには何年もの時間と費用がかかったことだろう。その大願成就を記念して、また時には志なかばにして亡くなられた行者を供養して造立された塔が、これら「廻国塔」「納経供養塔」である。ここ光秀寺にあった「奉納 六十六部願滿塔」も「六十六部塔」もそういった供養塔だろう。六地蔵菩薩塔などの石塔群から北へ進むと一般の墓地になる。その入口に念仏供養塔 享保5(1720)四角い台の上の舟形光背に輪光背を負った丸顔の地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背全体がうっすらと白カビに覆われている。光背右脇「奉供養念佛講中二廿五□」その下に尾ヶ崎村内谷下。左脇に造立年月日が刻まれていた。