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カテゴリ:上尾市の石仏
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平方の最後は馬蹄寺の石仏です。 馬蹄寺 上尾市平方2088[地図] ![]() 橘神社の前の信号交差点から東へ向かい、250mほど先を左折して北へ進むと、突き当りに馬蹄寺の入口があった。門柱の両脇に三基の石塔が並び、正面に山門、左の門柱の向こうに大きな鐘楼が立っている。 ![]() 入口左脇 地蔵菩薩塔 元文4(1739)大きな基礎に薄い四角い台と反り花付きの台を重ねた上に、丸い敷茄子と厚い蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。威風堂々、総高3m近い。 ![]() 反り花付きの台の正面に導師 當山十六世 庸譽上人。願主 永嶋氏。左側面に造立年月日。右側面に同志 平方中と刻まれていた。 ![]() 入口右脇 徳本名号塔 文化14(1817)二段の大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面に独特の字体で「南無阿弥陀佛」その下に徳本(花押)塔の下の台の正面に大きく「講中」と刻まれている。塔の両側面は無銘。背面に造立年月日が刻まれていた。 ![]() その隣 地蔵菩薩塔 享保3(1718)入口左脇の地蔵菩薩塔とほぼ同じ構造で、やはり総高3m近い。『享保の大地蔵』享保期は各地でこのような丸彫りの大きな地蔵菩薩塔が作られたようだ。 ![]() 反り花付き台の正面中央に當寺十五世 願主 實譽。右脇に三行、施主當邑/總村中/日記念佛講中。日記念仏は一月から十二月の月々の当たり日に行なう念仏で、日記念仏塔は利根川水系流域の茨城県と千葉県に多くみられるという。左脇に造立年月日が刻まれている。 ![]() 山門手前の右は広い駐車場になっていて、その東のブロック塀の前に多くの石塔が並んでいるが、そのうち九基は馬頭観音塔だった。本堂左の墓地内にあった石塔の銘文によると、この地は「馬作人」がいた旧跡で、天文年間(室町時代)に感誉上人が寺を建立して第一世となり「馬蹄寺」と号したという。 ![]() 石塔群の右端に六基の馬頭観音塔。前列右から明治31(1898)/明治31(1898)/明治29(1897)、後列右から明治18(1885)/大正13(1924)/寛政9(1797)いずれも施主は個人、石塔の正面に「馬頭觀世音」と刻まれている。 ![]() 続いて馬頭観音塔 大正7(1918)大きな舟形?の石塔の正面を彫りくぼめた中に「馬頭觀世音」背面の銘文の中に造立年月日が刻まれていた。 ![]() この大きな馬頭観音塔の前に手水石 造立年不明。うしろの馬頭観音塔とは全く関係なくここに置かれたようだ。正面に「奉献」とか「水盤」などとあるのが普通だが、こちらは正面中央に縦に「南無彌陀佛」と刻まれている。これは珍しい。 ![]() 左右両側面に主にひらがなで多くの名前が刻まれていた。どうやら女性中心の念仏講によって造立されたものらしい。見える範囲では移年銘は見当たらず造立年はわからない。 ![]() 続いて馬頭観音塔 明治2(1869)片岩の正面に「馬頭觀世音」背面に造立年月日。 ![]() 最後は馬頭観音塔 明治1(1877)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に大導師 勤譽上人。左側面に造立年月日。上の台の正面に「聴謝?」上下二段の台の両側面に多くの名前が刻まれている。 ![]() 山門を入り本堂に向かう。本堂手前を左に折れて西に進むとフェンスに囲まれた墓地が本堂の裏までひろがっていた。墓地に入ってすぐ、五基の墓石と石碑が一列に並んでいる。 ![]() 石碑のさらに南にブロック壁の小堂が立ち、その奥にも石塔が並んでいた。 ![]() 小堂の中 六地蔵菩薩塔 寛政4(1792)六体の丸彫りの地蔵菩薩像は欠損なく、石塔、敷茄子、蓮台と全体によく揃っている ![]() 六基の石塔の正面右に願主 聖譽、左に同志講中。右から3番目の石塔の左側面に造立年月日が刻まれていた。 ![]() 六地蔵菩薩塔の左 地蔵菩薩塔 造立年不明。角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像。左足が破損。敷茄子と蓮台は分厚い。 ![]() 角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に二行の願文。左に十九世童譽上人圎純収□。移年銘が確認できないがおそらく六地蔵菩薩塔とほぼ同じ時期の造立だろう。 ![]() 小堂の左に三基の石塔、さらに通路をはさんで奥に四基の石塔が並んでいた。 ![]() 小堂左脇の三基の右 百番供養塔 安政2(1855)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「奉納百番供養塔」百番とは観音霊場百ヶ所、順礼供養塔である。台に銘は見当たらない。 ![]() 塔の左側面、白カビの中、梵字「バーンクの下に湯殿山 月山 羽黒山。出羽三山供養塔も兼ねている。 ![]() 右側面中央に造立年月日。右脇に武州足立郡平方村、左脇に施主とあり個人名が刻まれていた。 ![]() 中央 念仏供養塔 寛延2(1749)角柱型の石塔の上に蓮台に座る丸彫りの阿弥陀如来像。下の台は二段で、総高2mを超える。塔の正面に「一萬二千日廻向」一万二千日に渡って念仏を唱えたということだろう。 ![]() 塔の右側面に造立年月日。続けて其十六世庸譽上人と刻まれている。 ![]() 左 地蔵菩薩塔 明暦元年(1655)四角い台の上の大きな舟形光背に頭の上まで伸びる長い錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。 ![]() 一部に白カビがあるが、欠損は無く像は美しい。光背右脇に大姉戒名。左脇に命日。墓石ではあるが江戸時代初期の古仏として取り上げた。 ![]() 通路を隔てた奥に浄土三部経供養塔 享保6(1721)四角い台の上の宝珠付き唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、阿弥陀三尊種子の下に「奉讀誦浄土三部妙典壹千部」両脇に天下和順/日月清明。台の正面右側に造立年月日。続いて施主とあり個人名が刻まれている。 ![]() 塔の右側面に「先祖各霊六親眷属等」その両脇に四つの戒名。左側面にも八つの戒名。施主の先祖、基本は一族の供養のための造搭である。 ![]() 背面にも銘が刻まれていた。両脇に二名の名前。どちらも大和尚。中央「澍法雨演法施常以法音 萬霊」万霊塔を兼ねての造立と考えられる。 ![]() 続く三基は墓石。一番奥は正面に童女童子戒名が刻まれ、右側面に嘉永2(1848)の紀年銘があるが、塔の上の地蔵菩薩坐像が真新しく再建されていた。 ![]() 六地蔵の小堂のあたりから西に向かって進んでゆくと、墓地の奥の塀の前、卵塔などの間に大きな阿弥陀如来塔 寛文7(1667)が立っている。 ![]() 鋭角的な舟形光背に浮き彫りされた阿弥陀如来立像は、白カビにまみれているがどこか気品がある。光背左脇に造立年月日。右脇、白カビの中に「奉供養日輪尊天」この銘は初見。日輪尊天というと大日如来のことかと思われるが、ここでは阿弥陀如来が祀られていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.09.07 19:38:19
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