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あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

『一生成仏』について御指南などなど集

 御法主日顕上人猊下御説法
     十如是事(2)
                          平成元年六月三十日
                          経王寺新築落慶法要の砌

 それから、「春より秋をまつ程は久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚りに入って仏を顕はす程は久しきやうなれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり」。つまり、春に苗を植えて秋の収穫を待っている間は長いようだけれども、必ず一年のうちには収穫を得ることができるよう、我々もまた、妙法の道に縁していくならば、今生において覚りを得ることができるのであるという、いわゆる一生成仏ということの保証であります。
 ここを御指南あそばされるのが大聖人様の末法の御本仏としての大慈大悲であり、また真実の御指南であると拝せられるのであります。
 これは合譬と申しまして、譬えを合して、我々が一生のうちに必ず成仏することができることを仰せになられているのであります。
 次に、「此の道に入りぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり」。ここは、今の一生成仏を受けて、そのなかにおいても上中下の三つの機根があるということをお示しであります。やはり、機根というものがあり、はっきり言うと、末法の衆生はほとんどすべてが下根なのです。
 ですから、このような尊い御書を拝したからといって、直ちに即身成仏して、一生成仏の明煌々たる人格と智慧と徳を顕すことのできる方はなかなかいないと思います。しかしながら、一生のうちには必ず顕すことができるのです。これは真実でありますから、ここを忘れないで信心修行に励んでいただきたいと思います。
 それで、「上根の人は聞く所にて覚りを極めて顕はす」。これは聞いただけで覚りを開くということですから、大変な人であります。このような方は正法・像法でもまれであったでしょうし、今日の時代にはいないであろうと思います。まして末法の人間にはそのような機根の方はいないのです。
 「中根の人は若しは一日、若しは一月、若しは一年に顕はすなり」。これは主に像法時代の人と言えます。まれには末法のなかの利根な人にも唱題修行によって真の覚りに至る方がおられましょう。強盛な信心によって、一日、一月、一年ですばらしい境界を開かれる方も、あるいはいらっしゃるかとは思います。
 それから、「下根の人はのび(延)ゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて、諸のみえつる夢も覚めてうつゝになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思ひ、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつゝの覚りにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり」。下根の人間はなかなか成長することがなく、いつまで経っても同じところにいるようだけれども、一生は限られたものなので、臨終の時に至れば必ず成仏の相を顕すのであるということです。
 「諸のみえつる夢も」以下は、色々な妄想や迷いがあるけれども、それらがサッと消えて真の本覚の覚りを開くということであります。「うつゝ」というのは夢の反対ということで、目が覚めることをいいます。つまり、夢を見ているかのように邪な考えや煩悩に執われて迷っていたけれども、夢が覚めた時のようにそれらから解放され、本覚の覚りを開くということであります。
 そのような目で法界を見たときに、自分がいる所は寂光の極楽であり、日ごろ賤しいと思っていた自分の身が、実は三身即一の本覚の如来であることを覚るのである。我々下根の者であっても、必ず一生のうちにこのようなすばらしい境界を開くことができるという、まことに尊い御指南であり、けっして我々を哀れんで偽りをおっしゃっているのではありません。
 次に、「秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に收むるが如く、此も上中下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と、一体不二に思ひ合はせてあるべき事なり」。これは三根成仏の譬えでありまして、稲の種類にも早く実をつけるものと、中くらいのものと、遅いものとあるけれども、必ず一年のうちに収穫を得ることができるのと同様に、人も上中下という機根における三つの区別はあっても、必ず一生のうちには諸仏如来と等しい境界を開くことができるということです。これは法華経を信じ、三如是即三諦の法理を深く体していくならば、そのような功徳が顕れるのであります。
(大日蓮平成5年5月号)


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