765727 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

佐渡以前の御化導――本門の題目 上

 第二回法華講夏期講習会 御法主日顕上人猊下御講義
    結要付属の妙法蓮華経(三大秘法)
     佐渡以前の御化導――本門の題目 上
       法華講夏期講習会 第七期(平成十六年七月十日)
                     於 総本山客殿

  夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく(一生成仏抄 御書四五~六p)
 この『一生成仏抄』は、建長七(一二五五)年の御書で、大聖人様が御年三十四歳の時にお認めになられたものです。建長五(一二五三)年に宗旨建立をあそばされた翌々年です。
 大聖人様はわずか三十四歳で、この尊い御文をお示しになっていらっしゃるんですね。私共はいくつになっても、とてもこのような御文は書けませんし、考えもできません。この大聖人様の御書を拝して、初めて内容を少しでも理解させていただくと同時に、有り難さが判るわけです。
 内容を申し上げますと「無始の生死を留めて」の「生死」というのは、これは形のある一切のものに生死があるのです。人間だけではなく、石ころ一つにも生死があるのです。石ころもだんだん風化してなくなっていきます。その形として現れた時が生で、それが変化してだんだんに形がなくなっていけば死なのです。草木などもすべて同様です。人間や動物などの有情は全くそのとおりで、生・住・異・滅と示されるように、この世に誕生し、生活をする間に年を取って最後に死んでいくのです。この全体をまとめて生死と言う。つまり生死は、生命における必然的な変化ということであります。
 その「生死を留めて」という「留める」とは、どういうことかと言いますと、迷いの生死を留めるということです。ただ生死をなくしてしまうとか、あるいは年死そのものの進行を留めるという意味ではありません。生死についての迷いの内容を留めるということで、つまり生死を悟りとして開き顕していくということであります。
 皆さん方は、自分は生まれる前は何だったのか考えたことがあるでしょうか。なかには、生まれる前は何もなかったのだと思っているかもしれません。それから死んだ後はどうなるのでしょう
か。死んだ後も、結局、身体がなくなってしまうから、すべてが消滅してしまうと思っているかもしれません。このような考え方は「断見」という見解であり、実は誤りであります。
 それから、自分には自我があり、霊魂として生まれる前から存在し、また死んでからも霊魂として存在する、つまり自我の上から存在しておるという考え方も、「常見」という誤りであります。この「断常の二見」を離れたところに本当の生死、我々の命の本質が存在するのです。それはやはり因縁と果報による存在なのです。それを皆さん方も毎日朝晩に、
 「如是因。好走縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」(法華経 九〇p)
と読んでいらっしゃるわけです。ですから、我々の生命は因縁果報に基づいた業による存続でありまして、それは単なる我ではないのです。
 この中の「因」とは、我々の過去の業なのです。そして「縁」が、お父さんやお母さんです。我々は過去の業による因と、さらにそれに関係する縁によって今日生まれてきているということで、つまり因縁であります。
 しかし、その中で迷いから迷いへ長く転々としていく六道輪廻の姿がある。その迷いを仏法によって悟りの上に転ずる、迷いの業を転じて因縁を浄化する。仏の悟りの境界を得て、迷いの悪因縁を悟りの善因縁に転じていくということが、生死を留めるという意味であります。
 次に「此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし」との文は、生死のしがらみ、悩み、苦しみ、これらを留めて無上菩提を証せんと思うならば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべきであると示されるのです。
 この「衆生本有の妙理」とは、本来、我々衆生には不可思議な真実の理が具わっておるとの文です。その真実の理は何かと言うと、要するに「空」と「仮」と「中」なのです。そして、これ以外に仏法の真実の理はないのです。空・仮・中と言ってしまうと、簡単に思うかもしれませんけれども、この空・仮・中の深さ広さ、真理真実の絶対性というものは、我々の常識をはるかに超えておるのです。ですから「衆生本有の妙理」の内容は、空・仮・中の三諦の理であります。
 その「衆生本有の妙理」を本当に正しく観ずれば仏様に成れる。つまり迷いの中で転々し悶々と苦しみながら移り変わっていくのではなく、無始の生死を留めて自由自在な命に転じ、法界を永劫にわたって活動できるということであります。
 そこで、その次の文に「衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり」と明示されています。これは我々衆生の一切のこと、特に知ると知らざるとに関わらず、真実の幸福な悟りの命が、本来、存在することが妙法蓮華経の五字七字にきちっと顕れているということで、これが末法の仏様、日蓮大聖人でなければ、はっきりと御指南できないところなのです。
 ですから、次に「故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」とあり、妙法蓮華経と唱えることが大事であると言われるのであります。
 この「故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば」とある大聖人の御文を、みんなうっかり読んでいます。この「唱へたてまつれば」という指南は、お釈迦様は直接にははっきりとおっしゃっていないのです。法華経二十八品の内容はすべて妙法蓮華経でありますが、あの法華経二十八品の中のどこにも「妙法蓮華経の五字七字を唱えよ」と具体的にはおっしゃっていないのです。受持・読・誦・解説・書写という修行の内容は示されておるけれども、これは法華経二十八品の経文について述べられておるわけです。ですから大聖人様のみが「妙法蓮華経と唱えよ」ということを、まずこの『一生成仏抄』等でおっしゃっており、これが要するに大聖人様の三大秘法御施化の中、本門の本尊に即する本門の題目としての御化導のかたちであります。それが「衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」ということです。
 次の「文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり」も、非常に深い御文であるけれども、妙法蓮華経の文字がそのまま法界全体の真実の相を顕しておるのであり、真実の相がそのまま妙法蓮華経の五字七字であるという御指南です。故に、妙法を唱えることが、自然に法界の真実相に達することなのです。
 そこで、この妙法蓮華経についてさらに明らかに、本当の悟りの内容は何かと言うならば、「唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく」と示されてあります。この「一心法界」ということは、我々の命の究極の内容を述べられておるのです。『観心本尊抄』では、一心に十法界を具すということ、そしてそれらの帰結として一念三千の内容を、観心段の最後のところで妙楽の文を引かれて、
 「身土は一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」(御書 六五三p)
と述べられております。たとえ知らなくとも、一身そのままが法界全体に遍満するところの絶大な内容の心を、我々迷いの衆生といえども、それぞれが持っておるのです。「衆生本有の妙理」と言っても、その究極のところは、我々の命の中に法界全体の内容が存在しておるということです。
 これは大きくて普通では想像もできません。しかし「一心法界」とは、法界全体が我々の命の徳の内容として存在することであります。ですから「一心法界」の悟りが、妙法の中心帰結であると信じて題目を唱えるところに、やがて真の悟りに到達できるということを申し上げておきます。
(大白法平成16年11月1日号)


© Rakuten Group, Inc.