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あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

本尊問答抄(8)

 御法主日顕上人猊下御説法
     本尊問答抄(8)
                   平成元年十二月二十五日
                   妙声寺移転新築落慶入仏法要の砌

 「この道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば」。「この道理」ということは、真言は必ず邪法であり、この邪法によって大きな災害が来るということであります。そして、法華経という即身成仏の大法によって一切の人が現世安穏・後生善処の幸せを得るということの道理であります。したがって「この道理を存ぜる事」とは、こういうことをはっきり自分が知るようになったという意味であり、それは「父母と師匠の御恩」であるということです。そこで、この父母と師匠の恩について述懐あそばすのであります。
 しかし、「父母はすでに過去し給ひ畢んぬ」。自分の父母は既に「過去し」つまり亡くなられてしまっている。
 「故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかかきのやうににくみ給ひぬ」。道善房という人は、東条左衛門尉景信の威勢を恐れて大変びくびくし、非常に心弱い人だったと思われます。弟子である大聖人様の正法正義を聞いて、それで本当に法華経信仰に改めればよかったのだけれども、それがなかなかできなかった。つまり、地頭の景信を恐れたが故であり、心中には大聖人様を不憫と思っていたけれども、外向きには敵のように憎んだというような事例があったのです。
 「のちにはすこし信じ給ひたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ、おぼつかなし」。のちに少しばかりは法華経を信じられたようであるけれども、臨終の時の信心は、はたしていかがであったろうか、まことにおぼつかない、ということであります。「地獄まではよもおはせじ」。縁あって、法華経の大行者・日蓮の得度の師匠となられた方であるから、地獄には行かれていないであろう。「又生死をはなるゝ事はあるべしともおぼへず」。しかしながら、あの信心ではとても生死を離れて真の菩提を得られたということはあるまい、と仰せであります。
 「中有にやたゞよひましますらむとなげかし」。私達の師匠であった道善房は、このような意味で、あまりはっきりした信心がなかった。したがって、「中有」に漂っているのではないか、というのであります。
 「中有」というのは、死んでから次に生を受けるまでの間のことを言います。生命が存続していく上において、色心二法として必ず「有」という意味が存するのです。
 この中有の期間は、瞬間であったり一過間乃至、一年以上であったりと、その人の善悪の業によって皆、違うのです。大悪の人は、命終したと思ったらすぐに地獄に堕ち、餓鬼、畜生の場合は少し期間があります。それから仏様に成る方は、いっぺんに仏様に成る。大聖人様が『松野殿御返事』(御書一〇四五p)にお示しのとおり、非常に早く仏様に成ることができるのであります。しかし、悪いこともしない、善いこともしない、どちらかと言えば悪いことをしているというように、はっきりしない場合には、餓鬼になるか畜生になるか、あるいは修羅か人間かというように、なかなか定まらない場合もあるのです。そういう状態で一過間とか百カ日、一年、三年、七年、あるいは無限に中有に漂っているという業もあると、経典のなかに説かれてあるのです。ですから、御先祖の法事は大事であると考えていただきたいと思います。
 そういう意味で、道善房も中有に漂っておられよう、と仰せられるのであります。
 中有に対して、次に生を受ける時の刹那の有を生有と言います。また、生まれてから死ぬまでの間を本有と言い、それから死ぬ時を死有と言います。そののちの死んでから次の生を受けるまでを、ただいま申したように中有と言うのでありますが、これが長ければ長いほど、善悪があまりはっきりしない人だったと言えるのであります。しかし、皆さんはそんなことはありません。信心をしっかりすれば、大聖人様の仰せのとおり、成仏得道間違いなしであると、私は確信いたします。
(大日蓮平成11年4月号)


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