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2019.04.16
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オはオタクのオ 第0029回 趣味は”映画鑑賞”って本当?疑惑。

 オタク第一世代にとって”映画鑑賞”と言えばTVの月曜ロードショーや金曜洋画劇場で放送される映画を視聴するあたりから映画鑑賞の記憶が始まっている ・・・ と書いていいのではないかと。

 ちなみに、日本でカラーTVの普及が本格化したのは1964年の東京オリンピックの頃からという説が有力ですから、家庭で映画館で見るようなカラー映像で映画を視聴できるようになっていったのは1960年代半ばから1970年代半ばにかけての10年間くらいの間に生じた変化だったとざっくりと考えておけばいいのかもしれません。

 日本のTV放送の歴史といえば、駅前などの柱の上に白黒TVを乗せたというか括りつけて放映した”街頭TV”の頃からの話になるのですが、その当時は”TVとはどういうものなのか?”を実演して見せて知らしめるところから始める必要があったわけです。

 ラジオ放送の開始は戦前の話になるのですが、リアルタイムで情報を広範囲に(それこそ、野を越え山を越え海を越えて)拡散できる手段を人類が手に入れた初の事例で、活版印刷やレコードなどの発明と普及も普及が始まった当時は革命的な出来事でしたが、従前の情報伝達関連の発明に比べると別次元の進歩だったと言えます。

 情報伝達に関する、ラジオ放送の革新性に気が付き積極的に普及させ利用もしたのが独逸のヒトラーで、ほとんどの世帯で購入できる価格帯の国民機とでもいう規格のラジオ受信機を国策として開発させ普及させたこと自体は評価に値すると思います。

 もちろん、ラジオの有用性に気が付いたのはヒトラーだけではなく、同時代のハリウッドなど芸能界の関係者も早い時期から着目していて、例えば、後発のハリウッド映画で”(歌って踊っての)ミュージカル映画”というジャンルが開発され定番化したのも、ミュージカル映画なら劇中の音楽や歌をレコード化しやすく、そうした音源をラジオで放送することで安価かつ手軽に広域プロモーション活動ができることと無縁ではなかったりします。

 同じ国内でも複数の時差が生じるくらい国土が広い亜米利加でというか、ハリウッド映画でミュージカルが定番になったのはラジオ放送との相性が良かったからということになるのですが、そう考えttると、亜米利加などと比べると国土が狭い映画の先進地であった欧羅巴の映画業界でミュージカル映画がさほどというかほとんど発達しなかったのもなんとなく腑に落ちます。

 スクリーンで上映するタイプの映画を実用化(シネマトグラフ・リュミエール)したのは仏蘭西のリュミエール兄弟というのが定説ですが、1895年に有料公開を始めた当初は”駅に進入してくる蒸気機関車の白黒無声映像(ラ・シオタ駅への列車到着)”を上映するだけで客が払ってくれたくらい画期的な発明だったのですが、当時の観客からすれば”(スクリーンの)奥の方からやって来た蒸気機関車が手前の方にやってきたのに急に姿が消えてしまう”現象に納得がいかず、スクリーンの裏側を確認する人が珍しく無かったとされています。

 ちなみに、エジソンが1891年に発明した映画装置(キネトスコープ)は一人一人が箱を覗き込むような ・・・ これを書いている時点だとVRゴーグルと発想が似ていますが ・・・ 装置で、1枚の大きなスクリーンがあれば数百名単位で映画が同時視聴できるスクリーン方式の映画よりも設備投資やランニングコストが割高になることもあってか普及しませんでした ・・・ ま、画面から受ける迫力なども段違いですから無理のない話ではありますな。

*この頃の古典の名作で一押しは独逸(ワイマール共和制時代)の白黒無声映画”メトロポリス(1927)”・・・日本の元号だと大正15年。

 そういったこともあって、映画の作成は仏蘭西から始まって、独逸や英吉利などが戦前の映画製作のメッカとなっていた時代があるのですが、世界大戦などの社会の混乱で映画産業も混乱し、直接の戦火とは無縁だった亜米利加に一気に映画製作の拠点が移動し、亜米利加政府も政府の広報活動としての映画の利用を兼ねて積極的に映画産業を国策として育成していきました。

*この頃の古典の名作で一押しは米国なら白黒トーキー映画”モロッコ(1930)” ・・・ 日本の元号だと昭和5年。
*今だにリメイクや新作が製作される米国の白黒トーキー特撮映画”キングコング(1933)”は当時の特撮技術を考えると驚異的な代物で今見ても十分に鑑賞に堪える ・・・ と思う(笑)。

 もっとも、後に映画産業を脅かすことになるTV放送は第二次世界大戦以前に始まっていて、ベルリンオリンピックの中継放送が実用放送の世界初とする説が有力ですが、幻に終わった戦前の東京オリンピックにおいてもTVの中継放送が検討されていたというのは実話ベースの話になります。

*この頃の古典の名作は米国のカラー・トーキー映画”風と共に去りぬ(1939)” ・・・ 長編(222分)過ぎて退屈になるかもしれんけどね。

 まあ、戦前のTV放送云々という話は、当時の最先端科学技術を誇示する国家の威信をかけた採算度外視の国家事業の側面もありますし、実際に各家庭でTV放送を楽しめるようになるのは欧米諸国でも第二次世界大戦後の話になりますから、技術的には戦前に実用化と普及の目途がついていたという程度の認識でいいのではないかと。

*この頃の古典の名作で押さえておきたいのは米国の白黒トーキー映画”カサブランカ(1942)”。後にカラー作品でリメイクされたが、オリジナルをカラー化した方がまだましだったのではないか?と私は思いました。

 実際、直接の戦火をほぼ免れた亜米利加でも1940年代頃までは、映像を見たければ映画、楽曲や音声だけでよければラジオという認識が一般的でしたし、戦後の米ソの宇宙開発競争(実質的に大陸間弾道弾の実用化競争)において、開発競争で優位に立っていた(当時)ソ連の第一書記長兼首相のフルシチョフが亜米利加の副大統領だったニクソンがモスクワを訪問したときの対談(1959、キッチン討論として知られる)で、ニクソンが”いかにアメリカでカラーTVが普及しているか”を力説することで科学技術や経済力などの優位性を示そうとしたとき、フルシチョフが手ぶりを交えながら”でも、私たちのロケットはあなたたちの頭上を通過できる”と切り返してニクソンを絶句させたというのは歴史の一コマになっています。

*亜米利加ミュージカル映画の古典の定番”雨に唄えば(1952)”はカラー・トーキー作品で、さすがにこの頃になると、カラーでトーキーが定番化。
*そうした中で話題になり定番作品になったのが、米国の白黒トーキー映画”ローマの休日(1953)”。オードリー・ヘップバーンが欧羅巴から亜米利加に活動拠点を移したあたりもポイント。ちなみに英米合作映画”遠すぎた橋(1977)”を観た後でオードリーの大戦中の活動履歴を知ると二度おいしい。

 つまり、人の生き死にには直接の関係が無いカラーTVがいくら普及していたとしても、君たちは核弾頭を搭載して、旧大陸から新大陸へ、宇宙空間を経由して短時間で飛来するロケット兵器を持ってないよね?と言われると返す言葉が無かったということで、それまでの大型爆撃機に核兵器を搭載して数時間から数十時間かけて相手国を攻撃する戦略爆撃構想が事実上無効化されていることが、皮肉にもカラーTVを経由して亜米利加国民に明示された歴史的瞬間だったわけです。

*オードリーとくればマリリン・モンローということで、この辺りだと”七年目の浮気(1955)”。今見ても”亜米利加ってリッチだな~”と。
*1955年といえば、ジェームス・ディーンの”理由なき反抗”も1955年。
*ちなみに、日本だと昭和20年代生まれあたりから女性にコアなファンが多いミュージカル映画の定番は”ウエストサイド物語(1961)”。

 そうした後れを挽回する必要に迫られたこともあって、ケネディ大統領が”1960年代末までに月に自国の宇宙飛行士を送り込む”アポロ計画などに国家予算の10%(周辺関連予算などを含めるとピーク時には30%前後に達していたという説もある)を投入することになったのですが、亜米利加がアポロ17号を最後にアポロ計画を前倒しで終息させたのは、表看板の目標を期限内に達成できたことと、アポロ計画に付随して発達したロケット関連技術がソ連(当時)の大陸化弾道弾の技術に匹敵する水準となり、量産化された大陸間弾道弾の実戦配備がほぼ完了したことと無縁ではなかったりします。

 まあ、アポロ計画に投入されたいた亜米利加の国家予算は金額ベースで同時期の日本の国家予算の2~3倍の規模でしたから、いかに亜米利加でも金銭的な負担を続けることは難しかった側面もありますし、同時に泥沼のベトナム戦争の戦費も嵩んでいましたから、潮時ではあったと思います ・・・ 振り返ってみればですが。

 皮肉なことに、日本と亜米利加の間で人工衛星を経由したTV放送の衛星中継が行われて最初に飛び込んできたビックニュースがダラスでケネディ大統領が白昼のパレードの最中に狙撃されて暗殺されてしまったニュースだったというのは比較的知られた話ですが、一つの時代の終わりを告げていたのかもしれません ・・・ 陰謀論的な意味を含めて。

 そんな亜米利加に戦争で敗れて占領された戦後の日本でも、ラジオ放送は途切れることがほぼ無く継続され、戦後の復興に伴って各家庭にラジオの普及が再度始まったのですが、電源不要の鉱石ラジオの話など脱線したいネタは山のようにあるものの(笑)、先を急ぎます。

 日本でも1950年代に民需用の白黒TVの普及が始まるのですが、当初は高額で大卒サラリーマンの平均年収を越える価格だった ・・・ 貨幣価値の換算は難しい面がありますが、これを書いている時点だと白黒TVが一台で300~400万円していた感覚かと ・・・ ため、富裕層から普及が始まり、皇太子(平成天皇)の結婚式パレードとか東京オリンピックとかいった国家規模のイベント中継を節目にして普及が加速していった感があります。

 それまでの娯楽の王様といえば映画で、無声映画の時代から海外の話題作も思ったほど時間をおかずに日本で公開されるものが多かったのですが、大日本帝国の時代の日本人の生活圏が既に東南アジア全域に及んでいたこともあって、欧米諸国の租借地の関係もそこに加わって、シンガポールや上海、香港などで欧米諸国の本国における封切と大差のない時期に封切られた作品を鑑賞していた日本人は意外と多かったりします。

 まあ、ディズニーが史上初の長編カラーアニメ映画”白雪姫(1937)”を世に送り出した頃の日本の長編アニメといえば、長編白黒アニメ映画の”桃太郎 海の神兵(1945)”くらいですから、よくそれだけ国の豊かさにも技術水準にも大差があったアメリカと足掛け5年も全面戦争ができたと思います。

*ディズニーの”ファンタジア”が1940年、海の神兵の姉妹編の白黒映画”桃太郎の海鷲”は1943年。

この辺りで続きの講釈は次回に続きます ・・・ たぶん(笑)。






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Last updated  2019.04.16 07:10:20
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