2009/09/25(金)16:24
気づきの瞑想(3)
久しぶりに9月8日、9日「気づきの瞑想」の続きです。兄は「キリスト教とは愛の宗教だ」と言いました。
では「愛」て何でしょう?
山上の垂訓の中に
「心の貧しい人は幸いである。天の国はかれらのものである」
というのがあります。
ちょっと分かりづらい表現です。ギリシャ語をそのまま訳すと
「天の国はその人たちによって成り立っている。」という風にもとれるそうなのです。
つまり心の貧しい人たちが作っているものが天(神)の国、天の国は彼らによって作られる。さて「心の貧しい人」とはどんな人?
私は子どもの時から不思議に思っていました。心が貧しい、それってまるで喜びのない、心の狭い人みたい。兄は「心の貧しい人」は「霊において心の貧しい人」つまり「霊において心の中が空っぽになっている人」のこと。心の奥深いところが空っぽになっていて、どんなものにも捉われることなく自由である心。自分自身にも捉われていないから、常に周りの人々の中に溶け込み共に生き共感することができる。実は神さまも全てのものにこだわらない存在である、という風に言っています。だから行いは罪であったとしても存在そのものは常に肯定されているのですね。貧しい心は空っぽの心。「空っぽこそが愛」それは東洋の瞑想でいう「無」の状態。
こんなところで「愛」と「無」は結びつくのです。
とっても面白いですね。